2020年03月31日
だから作家と画家はもともと異なる存在だ。それはそれでいい。だけど作家で肉体を獲得しようとする者がいるが、観念としての肉体でしかない。本当に画家のように肉体を獲得したいなら、絵に転向するか、自らの肉体を破壊して作家廃業宣言をするしかない。または死ぬかだ。

「未知の事態に興奮している」という表現は、コロナを観念的にとらえている。コロナは形而上の問題ではなく、直截的な肉体の問題だ。画家である自分は興奮というような感情ではとらえられない。コロナはあくまでも肉体の問題である。そこが観念的な文学的人間と異なるところである。

興奮という発想は、そこに対象化した現実をフィクションとして見る視点です。映画や小説で見たり読んだりしても身の危険はありません。コロナを興奮の対象にしてしまうのは文学的発想です。

僕の知人の作家の周辺の若い人たちはこのコロナ事態に興奮しているという。まるでフィクションのようにとらえているのだろうか。戦争が迫る頃、それは現実で、映画ではないので、恐怖そのものだった。コロナも高齢者で持病を持つ僕にとっては恐怖です。

2020年03月30日
コロナウイルスで、どちらが現実で、どちらが虚構かわからなくなってきています。

今、生きているこの瞬間がフィクションですか?

2020年03月26日
なんだか、あわただしくなってきました。ジワジワ包囲網が縮まって来ています。私は静かにジーとしています。こーいう時こそ絵を描くチャンスです。

ヨーロッパの都市並みになってきた気配です。その内にテレビの画面に人っ子、ひとりもいない渋谷の街が写し出されるのかも知れません。

それにしても、この間の3連休の人混みは何んですか? 危機意識など全くないように見えましたよね。

別件で病院に行きたいんですが、「今は来ないで」と医師からドクターストップがかかっています。

現在開催中と進行形の展覧会、4件、ドクターストップがかかっています。

「完全な形」なんてどこにあるんですかね。そんなもんこの宇宙のどこにあるんですかね。いつも「不完全な形」の絵ばかり描いています。

わが日本列島は操縦の下手くそな飛行機に乗っているようです。パイロットだけがやけに自信があるんですよね。

2020年03月25日
東京五輪の延期は当然でしょう。コロナウイルスと五輪の大きい事業に日本は呼吸困難になりかけていた。いやなっている。

野川の桜並木には人が沢山いてびっくり。ここにはコロナがないのかな?

アトリエに篭ったままです。外出するとストレスになります。思い切って早めに手を打って東京も封鎖してしまった方が、長引かせないで済むのでは? と思う半面、イベントの再開などが始まっている。

スマホに依存するように、色んなことに依存したくなっているのが逆にコロナに近づくことになるのでは?

2020年03月23日
同級生の友人の養蜂家がロイヤルゼリーと蜂蜜を送ってくれて、毎日飲んでいるところです。働き蜂と女王蜂は同じDNAなのに女王蜂はロイヤルゼリーばかりたべているのであんなに巨大です。人間にも効果ありそうです。

ここ2週間以上、人に会っていないような気がする。生活のない生活です。

時間たっぷりあるけれど、目も耳も悪いので、本、テレビなどの文化とは無縁です。非文化生活を送っています。

絵は描いている(時々)けれど、描けば描くほど下手になる。岡本太郎みたいに努力したり、頑張って下手な絵を描こうとしなくても、自然に下手になってくれる。

ここ2週間ばかりアトリエで籠城したままです。持病の喘息と高齢者なので「冬眠していて下さい」と医師から言われている。

「完全な形の五輪」の発言の中には今年は無理だけどねーが含まれているんじゃないの。物は言いようだね。

僕の作品には完全な形のものは一点もない。ほぼ全作が不完全だ。

五輪でなくとも、完全な形という理想はどこにもないでしょう。だからこそ競技を競い合ったり、芸術があるんじゃないの。

2020年03月17日
久し振りの不眠に悩まされていて、フト解消法に気づいて実行したら、たちまち眠れた。いつもぬるい風呂に入っていたのを熱くして長時間入った。すると、身体がどんどん冷え始めた。冷えると眠くなることを忘れていた。昨夜は快眠だった。

2020年03月16日
三種の神器といって蜂蜜とオリーブ油とヨーグルトをこの間から毎朝食している。

では三種の仁義とは? これは内緒、あれと、これと、それである。

髭を剃った。髭を伸ばしたら若くなったと言われた。また髭を剃ったら若くなったと言われた。髭はどうにでも使えるみたい。コロナウイルスは髪や髭が好きだという。だから髭を剃った。

保坂和志の奥さんが手製のカラーマスクを作って、それをプレゼントされた。ただのマスクではなく、どこにもないオリジナル製だ。しかもリバーシブルだ。まあ、手がこんだ「アート作品」だけれど、仕掛けがあるような、ないような、見事に顔にフィットする。


参考図版として、20代の頃に作ったマスク写真も(撮影、石元泰博さん)

2020年03月12日
感染者を増やすだけでなく、退院者も発表すべき、と言ったら翌日テレビでやりましたが、一回こっきり。これは毎日報告すべきなのに、一回やっとけばいいか的発表は如何にもお役所的。

オリンピックもやるとかやらないとかふらふらしないで、どっちでもいいんだから、やる、やらないを一日も早く決めるべきだ。その方が対策のビジョンが見えて、それ一本にしぼればいい。誰がどうか、どういわれるか、そんな他人の目ばかりを気にする如何にも日本人的だ。

2020年03月11日
不安材料ばかり煽り過ぎです。事実として必要だと思いますが、好転している事実の情報も必要です。

ツイッターで、コロナ患者のタシ算ばかりしないで引き算も必要だと書いたことを糸井重里さんが反復してくれて、今朝のテレビで感染者に対して退院者の数字が報告された。こーいうことをなぜメディアが気づかないのか。一方向にしか視点が向いていない。

2020年03月10日
雨が降ったり止んだり、こーいうの結構好きなんだなあ。人間の感情がころころ変るみたいで。

自然界は人間の心(気持ち)とつながっている。雨、晴、曇、雪、あられ、雷、虹などは自然の生理だから、そー思って感じると、自分の生理と一致する。

マスクが品切れというけれど、大抵の人がマスクをしている。どこで買うのかしら。消毒液もないというけれど、飲食店にはある。お店の人にしか売らないのかな。

このところ、こちらの体調も、もうひとつなので、人に会わないようにしている。もともとひとりでいるのが好きだから。会わないことがストレスになるということはない。

2020年03月09日
コロナウイルスの感染者ばかりの数を増やすだけではなく、退院して治った人数はどうして報告しないのか。感染者が消滅している現実を伝える必要がある。パニックは少しは治まるはず。

2020年03月05日
2ヶ月振り、もっとかな、未完のまま放置していた絵に筆を入れる。前の続きというより、他人の絵に筆を入れるようなもんだ。前の自分と今の自分の合作である。

僕の中には複数の自分がいるので、その複数の自分同志のコラボが可能だ。

絵にはスタイルを必要とすると教えられているが、僕は独学だから誰も教えてくれない。自分が自分に教えるだけだ。

だから僕には、あゝでなきゃいけない、こーでなきゃいけないというルールがないので、考えるということは他の人よりないかも知れない。

2020年03月04日
ゴッホの耳を切り落としたあとの自画像は自虐的だ。この青白い自画像はどこか犯罪的だ。やがて自らを殺すことになる加害者の自画像もある。結局は加害者と被害者は同一人物だったわけだ。

アンディ・ウォーホルの自画像は昔のメディアのヒーロー達とセットで描いた。そして伝説の人物に仕立て上げた。オークションで最高額で落札されて、ますます神話の人となった。

ここまで書いてきて、思ったことは、自画像は自分に近づけるというより、自分をまるで他人のように突き放した時に描きたくなるようだ。つまり、自分を相対化したい時だ。死ねば別だが、生きている間に相対化するのはムツカシイ。

2020年03月03日
画家は、というか僕はしばしば自画像を描く。過去に10点や20点ではない、もっとだ。なぜ? そんなこと考えたことがない。描いてみようと思ったからかな?

自己を見つめるためだ、と評者はいうけれど、別に自分を見つめることでもない。鏡や写真の自分を確かに見つめて描くが、それは目の運動で心の働きではない。

自己を見つめるのは何も自画像でなくてもいい。何を描いても、そこに内面は自ずと出てくる。ただそれだけのことだ。

自画像を描く行為自体が自我表出だけれど、レンブラントなどはその結果、自我消滅へ向っていると思う。



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