2018年02月28日
「芸術新潮」3月号が「超老力」の特集。それと偶然ぼくの老人対談集「創造&老年」(SBクリエイティブ)がほぼ同時に出ました。両方とも老年の芸術家の創造力について語られています。合わせて手に取ってみて下さい。

昔(何年?)、サンタナの22面体LPアルバムが再発行されています。ぜひ、ホームページを見て下さい。アレ? 売り切れ? だそーです。また入荷したらご案内(ホームページ参照)します。

ついでにタワーレコードのフリーマガジンを紹介しましょう。






絵を描いている間中、迷いと不安の行き先き不明の航海に出た感じだけれど、この迷いと不安が絵を描き続ける原動力になっている。

最初の一筆も最後の一筆も決まらないまま、この絵の運命と共にするんだから、まあ因果なショーバイだ。

観客がひとりもいない競技場で全力で走っているようなものだ。

昔、グラフィックをやっていた頃は、100%頼まれ仕事だった。頼まれなければ何もしなかった。今100%頼まれもしない絵を描いている。生きるというのは頼まれて生きているのではない。

昨夜、五感全開の夢を見た。こんな夢は初めてだ。映画は凄いと思ったけれど夢の方がもっとすごい。

気分がいいのも悪いのも、その日の作品の出来で決まる。だから作品中心の生活になる。

出きが良くないと不眠になる。不自由になると古傷(骨折)が痛む。すべて作品中心で肉体と精神も生活も人生も回転している。

自分の老化も寿命も決定するのは全て作品。

だから人生なんて、考えてみれば単純だ。作品さえよければ人生はご機嫌!

2018年02月27日
亡くなった左とん平さんは「貫太郎一家」で毎週のように顔を合わせていた。僕の出演シーンは篠ひろ子さんの飲み屋のカウンターで、とん平さんとからむシーンはなかったが、話が面白い人で、エピソードなどはひとりひとりの言葉の言いまわしをマネて、嬉しそうに話されていた。

誰が描いたかわからないような絵を描いたつもりでも、人が見ると「わかる」と言われてしまう。自分であることの限界から離脱したいといつも思いながら、それができないのは「チキショー!」だ。

プロになると自分のスタイルが出来てしまう、というかスタイルを固定してしまう。実につまらないことだ。そのためには常にアマチュア精神でいたい。アーティストではなくアルチザンでいいのだ。

でもアルチザンは朝目を覚ますやることが決まっている。アーティストは決まっていない。だからぼくはやっぱり、残念ながらアーティストの領域に属しているらしい。このことがシャクで仕方ない。

現在、タマの絵が70〜80点近くできたかな? 彼女が死んでから描き始めて丸3年になる。こんなチンタラチンタラやっていると一生のライフワークになってしまう。年内に100点仕上げたい。

このこと、ここで書いたかな? オノ・ヨーコさんが「この猫は何?」と言うから、彼女のレクイエムで作品じゃないのよと。「だってタマへの愛が描かれているじゃないの?」まあ、そーだけど。「だったら立派なアートよ」「愛のない作品が多いのよ。タマには愛があるじゃない?」

"LOVE & PEACE" のヨーコさんらしいよね。

イヤー、年を取ると以前に言ったことをなんべんも反復しちゃうんだよね。前にも言ったことを忘れているのよね。同じ絵ばかり描く人は前に描いたのをきっと忘れているってわけさ。

東京国立近代美術館での熊谷守一展を観る。熊谷守一がクマガイモリカズになるまでの様々な様式の変化はスリリングだ。ぼくは終生横尾忠則がヨコオタダノリになれないような気がする。なれないのか、なりたくないのか、そこは自分でもわからない。

熊谷の「陽の死んだ日」は激情の悲しみを越えて辺りに当たり散らしたような怒りを感じた。

2018年02月26日
「芸術新潮」3月号の特集は「超老力」40才差の香取慎吾さんとのロング対談だけれど若い人と接すると、この先きまだ長いと思っちゃう。この芸術誌の特集とシンクロしたのが「創造&老年」の80、90代の創造者との対談集。2冊まとめて読んじゃおう。

神戸のぼくの美術館でスタートした「横尾忠則冥土旅行」にはタイプの違う新作ドッサリ展示しています。これらの作品に20点近くプラスして今秋ニューヨークに行ってしまうので、ぜひ見てもらいたい。東京の人たちにもぜひぜひ。ゴールデンウィークの5月6日が最終日です。

瀬戸内さんの寂庵の庭に元総理細川護熙さんの陶器の五輪塔を設置したお墓のデザインを頼まれているので場所の下見に行く。瀬戸内さん益々元気。秘書のまなほ君は最近売れっ子で、この日は東京の取材(テレビ?)で不在。

色んな方から「書評に!」と本が送られてくるんだけれど、書評の対象は全て編集部で選ばれますので、ぼくの一存では決められません。

昨日の東京マラソンは面白かったですね。

2日不在だったので帰って来るとおでんは大喜び。いつも知らんぷりしているのに、玄関まで走ってきてお出迎えをしてくれた。次の日はくっついて離れない。

2018年02月23日
新刊書の書店よりも古書店に入った時の方が想像的になれる。そして創造のヒントを得る。なぜかわからない。積み重ねられた本の長い時間の地層がぼくをそうさせるのかな?

寒いせいか、描いたり、書いたりで腱鞘炎にはならないと思う。この腱鞘炎の擬態は53年前の骨折のせいに違いない。

骨折は50年は治りませんよと医師に言われた。すると4年前と2年前の骨折はぼくが死んでもまだ痛みは生き続けるわけだ。

でもこの痛みは現世に残って行き続けるんだけれど、本物の痛みは死と同時に消えるので死後の魂は痛みは知らんはずだ。

死んでも、なおかつ痛いと思うんなら、その人はきっと地獄に行っちゃった人に違いない。するとだね。この現世で痛いということは、ここが地獄でもあるというわけだ。

頭と首のつけ根辺りが時々痛む。偏頭痛というのは頭の片方だけが激しく痛むので、これではなさそーだ。なんとなく横山大観の朦朧派の絵のような痛みだ。だからこれからは朦朧痛と呼ぼう。

アイデアというのは考えても出るものではない。むしろボンヤリ、ボヤーッとして何か本でも開いている時に、フッ、フッ、と空間の底から浮かび上がってくる。それも何かと何かが出合った瞬間にだ。これはうまく説明できない。

ぼくの場合は何かと何かが出合ってぶつかった瞬間にアイデアが浮かぶ。とにかくぶつからないと出てこない。それも期待していない時に起こる。考えている間はダメ。考えない時にこそ考え(アイデア)が浮かぶ。

2018年02月22日
「寺内貫太郎一家」が毎週月曜日から金曜日までBS12(P.M.8)放映されているそーだが、一度も見たことがない。居酒屋のシーンで出演している「黙んまり兄さん」の役。30代の頃かな。

明後日2月24日、神戸のぼくの美術館のオープニング「横尾忠則冥土旅行」展開催(A.M.9.30)このために新作20点近く制作。

絵は不思議なものだ。描けば一歩足を踏み出して前に進む。描かなきゃ、そのままだ。前に踏み出すこと、おおげさだけれど、この一歩によって生きることを実感する。

だけど生きることはどーいうことかよくわからない。わからないから生きているのだ。

死ぬということはどーいうこと? 自分が消えること? そーではなく、本当の自分と出会うことだと思う。でも本当の本当のことは何もわからないんじゃないかな?

わかっている範囲で生きているから不自由なんだと思う。

死ぬとわかっていたはずのことが全ーんぶ間違っていたことがわかるんだろうなあ。

すると、人は何もわかっていないこの世の中でわかっている気で生きているんだろうなあ。知らぬが仏ってやつだよね。

2018年02月21日
デザイナー時代は依頼に従って仕事をしていたけれど、画家転向以後は依頼がないので、うっかりすると怠けてしまいそーですが、健康でいるためには絵がサプリメントです。本物のサプリメントは飲んでいませんが…。

当り前じゃ、とっくに定年退職しているはずなのに、誰も止めろといわないので続いています。アスリートは引退がありますが、アーティストには引退がなく、ゴールもないので走り続け泳ぎ続けています。まあ、ぼくはイワシとそう変りません。

ぼくには若い小説家の友人が何人かいますが、絵の友人ということになると、いないんですよね。画家は孤独という友人が友人なんだと思います。

ぼくより年長の老人の友人は何人かいます。同級生は全員老人だけれど、同級生はやっぱり青春みたいなところがあるので、老人とはいえないなあ。

ぼくより、うんと年下の老人もいますよ。心当りのある人が、その老人です。

俳人の金子兜太さんが98歳で亡くなった。金子さんと4時間話したのが16年10月だった。当時96歳で多分110歳までは生けそうと、本当に元気だった。兜太さんとの最後の対話は近刊「創造&老年」に出ている。他界とアニミズムの話、いい話です。じっくり読んで下さい。


ロマン・コッポラ監督「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」Amazonプライム・ビデオにて配信中。一部協力しているので見てみてください。https://www.amazon.co.jp/dp/B0147LRKTG

2018年02月20日
先週の朝日新聞の書評で「ハックルベリー・フィンの冒けん」(マーク・トウェイン著、柴田元幸訳/研究社)を取り上げたが、この翻訳が凄い。ほぼ全篇ひらがなで所々漢字とカタカナでページがなんとなく白っぽい。主人公ハックが133年前の南部の方言で語り、書いているからだ。

「トム・ソーヤの冒険」(新潮文庫)も同じ訳者のものだが、「ハックルベリー」とはかなり異なる。「トムソーヤ」を読んだ人は多いと思うが、一度、今回発刊された「ハックルベリー・フィンの冒けん」を是非研究社版で読んでみて下さい。読み終るとまた読みたくなるはず。

創造とは子供の時代に退行することだ。

誰も自分の中にトムとハックがいる。頭と体の関係かな? 君はトム派? ハック派?

黒澤明監督「七人の侍」を見た小学生の意見を山田洋次さんから聞いた。小学生は言った「七人のうち四人が死んで三人が残りました。しかしオシッコはしませんでした」と。もし、あの豪雨の中で三船敏郎が立ちションか野糞をしたら、あの名作は迷作になったかも。

2018年02月14日
長生きの秘訣は子供時代の時間に退行させればいい。ぼくが児童書を愛読するのは、そーいうことを無意識に願望しているのかも知れない。

賢く生きるより愚に生きるほうが遙に長生きするはずだ。愚に生きることは子供の精神に帰ることだ。子供時代の一日の長い時間を考えればわかるじゃない。

長生きしたければ、先ず長生きしたいと考えないことだ。欲望は時間を短縮してしまうからだ。

2018年02月07日
昔から「気分屋さん」と言われてきたが、その日暮し的なラテンぽいところがぼくの取り柄かな? と思う。



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