2018年11月30日
明日、12月1日(土)NHK・Eテレの「SWITCHインタビュー達人達」で 夜10時から11時まで瀬古利彦さんと対談します。マラソンとアート、何が同じで何が違うのだろうか、みたいな話になるんじゃないかな?
その後瀬古さんがアトリエに遊びに来られて6時間話しました。 これはテレビではないです。
2018年11月26日
これは絵とはいえないムチャクチャの絵ができた。できたんじゃなくヤーメタだ。こーいうことはほとんどないので、自分でもびっくり。考えてみれば、こーいうことがあった方がいいのかも知れない。なんとか作品にしてしまおうとしてやってきたけれど、アレは不自然だ。
死んだ人が去っていくのはわかるけれど、生きながら去っていく人が最近多くなった。若い頃にはなかった現象だ。
観念を言葉にするのは難しくはない。イヤ、難しいよと小説家に言われそーだが、感覚を言葉にするのはほとんど不可能だ。だから美術がそれをやろうとしているのだ。そんな美術を言葉にする批評はスゴイよね。美術家にはできないよね。
だから美術は肉体的なんですよ。この点では小説家に負けない。だから、そのことに気づいている小説家は最近、肉体、肉体と呪文のように言うよね。美術家は肉体、肉体と言わないで、肉体をやっちゃっているんですよね。
そのためには美術家は頭の中から観念や言葉を追い出して空っぽにする。空っぽになった時、肉体的になる。つまり肉体が脳を持つのである。小説が肉体を手に入れるために、空っぽになってごらん。大変だよね。
小説家で、こんなキヨウなことできるのは森鷗外ぐらいじゃないの。
2018年11月22日
来月にカルティエ現代美術財団30周年にカルティエで個展をした119人のグループ展で、僕は全員のポートレイトを出品しましたが、そのポートレイト集(カルティエ監修)が国書刊行会から世界発売になります。詳細は後日お知らせします。執筆者は館長とキュレイターが担当しています。
最初の1点から、すでに4年経ちました。すでに韓国と上海の美術館で発表しています。東京展も予定されていますが、日時は未定。
制作期限が3ヶ月弱で1日1点の割り合いで描きました。描き終ったあとしばらく入院してしまいました。まだ4年前は馬力がありましたが、今じゃ早くても半年はかかるでしょうね。
1点1点をできれば異なるスタイルで描き始めたが、短期間に1人の人間のやること、そんなに違った絵は描けません。
ぼくはセッカチ人間だから今までは100〜150号でも1日で描いていました。これからは、そんなわけにはいかないでしょうね。と言って時間をかけ過ぎると絵のパワーもエネルギーも逆に消滅してしまう。もうスポーツです。
この間、郷里の紙スキ工場で計5時間で8点作りました。集中した結果ヘトヘトで帰京して、2日寝込んでしまいました。
長嶋さんと会った時、野球は芸術だとおっしゃっていました。またマラソンの瀬古さんの中村先生もマラソンは芸術だとおっしゃっています。ぼくは芸術はスポーツです。
2018年11月19日
この間から描いていた絵がどうしても上手くいかない。こーいうことは今までに一度もなかった。なんとか形をつけたもんだ。だけど今回のようなネジレ現象はぼくにとっての新しい展開の予知でもある。この極超未完の作品のタイトルを「ネジレ現象」と名づけて、取って置こう。
ねじれた時はおとし前をつけずにやりっぱなしで放っとこう。なるようになるからさ。
2018年11月16日
老齢になると筋力がものを言うらしい。筋力をつけるためによほどの時以外、自転車は乗らずに歩行することにした。筋肉が劣ろえると免疫力が落ちるからだ。
目的のために歩く。例えば買物とか食事とか、歩くために歩くのではなく、この辺はアートの発想とちょっと反対ね。
夜中におでんがネズミを取ってきて布団の上でドタバタ。おでんを制してネズミを守護する。やっとつかんだネズミを深夜に庭に連れて行って逃がす。ヤレヤレ。
2018年11月13日
長い間、風邪をひいたことがなかったのに、何年振りかで風邪を引く。不思議なもので体力が落ちているのに風邪とは縁がなかった。年老いてからの風邪は恐いんですよね。命に関わるから。
恐いのは誤嚥性肺炎。予防は筋力をつけることらしい。身体が弱って免疫力がなくなるとこの病いに襲われる。筋トレはとにかく歩くのが一番。絵を描くために身体を動かすのではなく、身体を動かすために絵を描く。絵には目的はないけれど身体のために描くという目的ができた。
じゃ、身体のためにはどんな絵を描く? そんなこと考えちゃダメ。どんな絵だっていいのだ。だけど大きい絵でなきゃ身体は動かないよな。小さい絵をチマチマ描いちゃダメ。頭を使うだけで身体を使ってないよな。
年令と共に絵のサイズが小さくなっていたが、これからは老令になればなるほど大きい絵でなきゃ誤嚥性肺炎になるぞ。
文学が非肉体的な観念の作業だけれど絵画は肉体的というのはこーいうことでもあるんだ。画家が長寿であることも意味あるよな。
ぼくのような生まれつきの虚弱体質の人間がこの年まで生きてきたのは絵のお陰かも知れない。精神を吐き出して空っぽにすることが絵だからね。詰め込んでは絵が描けない。吐いて吐いて、出して出して、出しまくるのが絵である。
詰めて詰めて詰めまくる生き方は画家の生き方と対立するものだ。絵は吐いて吐いて吐き切ってこそ芸術。空っぽになる生き方がそれ。
NHK大河ドラマ「いだてん」のロゴを制作しました。
テレビではロゴも走っています。
「いだてん」は韋駄天と書く。仏舎利を奪って逃げた鬼を追っかけて捕まえた神様のことを言うらしい。鬼よりも速い神様だったのだろう。「いだてん」とはとにかく速く走ることだということを子供の頃から何となく知っていた。そんなわけで走り続けるドラマになってもらいたい。
マンガはほとんど読まない。ウーン? そーでもないかな? 古典のマンガ化本は随分沢山読みましたね。子供の頃、手塚治虫の「新宝島」、「ジャングル大帝」は読んだけれど、アトム以後は読まなかった。それから、ズーとしてから楳図かずおの恐怖マンガは好きだった。
だけど最近の流行りのものは全く知らない。その話を「ビックコミック」の編集者にすると、今後毎週送ってもらえるよーになった。マンガは読むのに物凄く時間がかかる。1コマ、1コマをじっくり見るからだ。マンガはやっぱり絵をじっくり見るべきだと思うよ。でないと勿体ないよ。
2018年11月09日
郷里の西脇で紙スキ作品を作っている。一種の瞬間芸なので、脳味噌を空っぽにしなきゃできない。4時間余りで6点制作したが、いつもの絵画と全く別人の作品になった。こーいう時は本当の自分はどこへ行っているのだろう?
でき上がった6点もバラバラ。どうしてこうも違う作品ができるのか自分でもわからない。
と考えると、自分とは一体何なのだろう。自分だと思っている自分など実は最初からいないのではないのか。
紙スキ作品を作りながら、フト思った。作るといいながら、実は最初から壊そうとする感情が働く。創造と破壊は同意語で、この両者は相対的なものではない。イコールである。
ソフトバンク1位指名されて入団した甲斐野央投手は西脇市出身で、昨日彼に会う。今年のドラフトで最も注目された選手だけに、即戦力としてすぐ一軍で活躍するんじゃないかな。楽しみが増えた。
2018年11月06日
耳が遠い分、見ることが耳の代りになってくれる。スミズミまで視線がなめつくしてくれる。
耳は遠いけれど、目でこれだけ笑ったんだから耳があればもっと大変だった。
勘九郎さんは勘三郎さんとは違った味のお芝居を自信たっぷりに。七之助さんの「狐狸狐狸ばなし」はもう面白くて面白くて、こんなに大笑いした歌舞伎は初めて、楽屋で2人に会っていてもまだ笑っていた。
久し振りで、というか中村勘三郎さんの最後の平成中村座以来、勘九郎さん七之助さんの中村座を浅草で観る。