5月30日
本日の寄贈本
奥泉光さんより「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」奥泉光著/文藝春秋
西川隆範さんより「シュタイナーはこう語った」ルドルフ・シュタイナー/西川隆範訳

ぼくは昭和の歌謡曲が大好きだ。聴かない日はないくらいだ。(但し制作中に限る)。昭和の歌は昭和の魂だ。昭和に生まれ、昭和に育った。そして昭和を描き続けている。昭和で死ねかなかったのは残念だけどね。

歌謡曲は実に肉体的だ。また昭和の歴史そのものだ。(昭和の全歌謡曲を持っている)昭和史を読む以上に歌謡曲によって昭和の思想を体の奥深くまで滲み込ませてくれる。だから絵の中にも昭和が命を吹き込んでくれるのだ。

5月29日
◯本日の寄贈本
アメリカン・ブック&シネマより「ドッグマン」マーサ・シェリル著

一昨日乗ったタクシーの運転手はメジロ博士だった。トリモチで取るらしいがバレると捕まるので、台湾メジロ監察を持っていて、「これは台湾メジロだ」と言えばいいそうだ。メジロを鳴かす大会では優勝メジロは5,000万円だというがホンマかいな。さかんにメジロを飼うことをすすめられた。

メジロの寿命は12〜3年とか。ボスを捕まえるといいが、大声で鳴きっぱなしなので、近所の人が警察にタレ込むと捕まるので用心しなさい—。といわれて飼う気はないと言うと、とにかく声を聞くだけで胸がキューンとなるんだって。

5月28日
昨日、ぼくのコレクターの所に行き、7〜8点の過去の作品を17年振りで見た。展覧会にも出品したことのない作品だったので、非常に懐かしく感じた。完全に忘れているのが2点あったが、もはや他人だ。だから真似したくなった。

外の雨のしずくの音がうるさいが、自然の音なので全く気にならないが、西洋人は雑音に聞こえて、雨の音や川の流れの音がうるさくて眠れないという人がいるという。

5月27日
ヨコハマ・トリエンナーレの出品作家の内日本側の参加者のごく一部を紹介しましたが、年齢の高さを気にしている方がいましたが、65組の大半が若手作家だと思います。日本からも多くの若手が選出されているはずです。

ぼくは1月から出品作を制作しています。地震で制作を中断したことはありません。展示期限まで描き続けますが、全作展示できるかどうかは未定す。

とりあえず、6月1日からの岡山県立美術館の「絵人(かいじん)百九面相」展では公開制作やトークも行われます。追ってお知らせします。

「絵人(かいじん)百九面相」では1965年のうんと初期の絵画から編年体で 展示されます。今まで一度も展示したことのない小品も出品しています。

5月26日
ヨコハマ・トリエンナーレの記者会見に出席する。3.11に予定されていたのが14分前にあの大地震で中止。本日はその仕切直し。200人位の出席者にはびっくり。全出品者今日初めて知る。日本人は杉本博司、荒木経惟、オノ・ヨーコ、その他。

行きの車も、会場も、レストランもクーラ、ガンガン。何のために人間を冷やすの? 地震で自粛、そのため凍結された事多し。ついでに人間も凍結する気。

ヨコハマ・トリエンナーレの記者会見に出席する。3.11に予定されていたのが14分前にあの大地震で中止。本日はその仕切直し。200人位の出席者にはびっくり。全出品者今日初めて知る。日本人は杉本博司、荒木経惟、オノ・ヨーコ、その他。

5月25日
●本日の寄贈本
朝日出版社より「TIGER MOTHER」エイミー・チュア著
平凡社新書より「ジョルジョ・モランディ」岡田温司著

今、緑が一番きれいな時期だ。成城の神明の森の端にあるアトリエには緑の萌えるような匂が浸入してきて、森のフィトンチッドを浴びながら絵を描いていると、アルファー波に襲われる。

そして夢と現(うつつ)の境域シータ波に飲み込まれそうになる。 ここから先きは観音の世界だ。

5月24日
絵はダンスに似ている。形をマスターしたあと形を崩すが、それを技術でやってはいけない。感性でやらなければならない。

絵にも腹八分目がある。八分で止めることができる者はコツを知っている者だが、満腹を求める者はまだ未熟だ。

5月23日
いつも「描いた」、気がついたら、「こうしてた」という時は時間を超えた結果だ。自分から離れた時、つまり個人が個になる時、普遍的になれる。––がそういつも子供のように無心になれるわけではない。

去年は1年で小品ばかり6点しか描けなかった。体調が悪かったせいだろう。今年は5ヶ月で15点描けた。「描いた」のではなく「描けた」という他動的な働きのせいで量産できているのかも知れない。

5月22日
集中豪雨のあとピタリと止んだ。インドを思いだした。インドでは雨のあと、猛烈な陽光が差して、水蒸気が上がったかと思うとまたたく間に砂ぼこりを立てて車が走る。まったく情緒がない。

今日みたいに天候の変化が激しいと頭痛がする。ぼくは気候の変化がすぐ体に直結するので、いつも自然を感じているが、それもしんどいもんだ。

映画「新宿泥棒日記」をめぐって唐十郎さんと話す。彼を紹介したのは寺山修司で、その時の話も。瀬戸内寂聴さんとは人と人の出合いの不思議や芸術のエロスについて。対談集「芸術ウソつかない」(ちくま文庫)より。

5月21日
新しい発想が湧いた途端、過去の作品が全て古臭く見えてしまう。これの繰り返しを長年やってきたのに中々進歩がない。まあ人類だって進歩がないんだから、人類の一人としてはまあイイカ。

岡本太郎のかの子論を読む。太郎さんとは世間とか美術界と戦っているようなことを言っているが結局は母かな子との戦いの一生だった。

われわれは岡本太郎を見ているのではなく、岡本かの子の亡霊を見ているのだ。

マッサージをしながら眠るのはよくない。指の感触を意識するのとしないのとは効果が違う。全て意識、意識だ。

意識がしっかりしていれば無意識の助力など必要ない。無意識に依存していると魂にそっぽ向かれる。

5月18日
「読書人」の担当編集者から連載の問合せや様々な反響が寄せられているという連絡が入りました。第4回目は今週の金曜日発売(書店で)に掲載されます。先はご通知まで。

吉本ばななさんとは夢の話から始まって幽霊に及んで、超常現象から肉体に帰結するまでの、そんな対話です。細野晴臣さんとは、インド旅行で病気になって、LP「コチンムーン」を作るまでのヅッコケ話を中心に。対談集「芸術ウソつかない」(ちくま文庫より)

でも描く絵は肉眼で見たようにではなく意識の眼に翻訳して描く。つまり夢の中で見たように描くということだな。

目が開いている限り描き続けているようなものだ。さすが夢の中の事物や風景や人間を見ても描いてはいないけどね。それは肉体の目で見ないで意識の目で見ているからの違いじゃないかな。

制作に没頭すると声がかすれて出にくくなる。展覧会などで集中して観賞する時も同じ現象が起こる。絵を観る時は絵を描くように観るからだ。何を見ても描くように見る。

5月16日
仁左衛門さんの「女殺し油地獄」を観た。以前観た時は孝夫さん時代だった。この出し物は文楽にはかなわないと思っていたが、さすが仁左衛門さんの与兵衛は彼が文楽人形に見えるほどの出来栄えだった。

だから失敗を増産すればするほど前進すると思う。次第に過激になるからだ。成功を考えるとその瞬間から保守的になる。

この間実につまらない見てくれのいい絵を描いた。最低の絵をね。だけど、この絵のために、次の絵が変ってしまった。それは「失敗だった」と思ったからだ。失敗が変化の突破口になってくれたのだ。
絵は変えようと思って変るものではない。無理に変えた絵は不自然で、ウソをついている絵になる。変るべきして変るものだ。

5月15日
休日はスタッフがいないので野良猫のエサの当番だ。夕方に行くと全員(3〜5匹)お腹を減らして待っている。それにしては太っているので、色んな所でもらっているのだろう。猫も依存しているが、こちらも猫に依存しているのかもしれない。

それにしても相互依存はよくないですね。昔デザイナーの交友関係を「仲良クラブ」と呼んでいたけれど、あれって相互依存で、当たり障りのない人間関係を形成したけれど、現在はどうなんですかね。

5月14日
◯本日の寄贈本
文遊社より「ポッピズム・ウォーホルの60年代」アンディ・ウォーホル著

ルネ・クレールの「そして誰もいなくなった」を観た。冒頭に登場人物をさりげなく紹介するが、すぐ犯人がこいつだと判ったが、やっぱりそうだった。その「こいつ」は頭にチラッと出ただけで、その後どこにも顔を出さないので観客は彼の存在を完全に忘れ去っている。その演出のうまさ!

複線がいっぱい張られいるが、これは観客をまどわせるだけでどうもいいことだ。複線だと思わされるだけのテクニックだ。全員が加害者であり被害者だ。そして最後に犯人らしき男を想定させるが、これだって怪しいもんだ。クレールは大ウソっきのペテン師だ。

最後はとっちらかしたような終わり方で、始末がつかなくなったようにさえ観客にそんな印象を与える。完全犯罪であり、未完全犯罪でもあり、勝手に判断しろと、さっさとクレールは逃げちゃった。

この無責任さは正に芸術だ。この映画の持っている謎と不確かさみたいな絵を描きたい。デュシャンやキリコはそれをやっている。

5月13日
整理整頓して身軽になった単純な生き方が流行っているらしい。ぼくはこの真逆だ。元々コレクション癖があるので、何んでも取っておこう、何んでも見渡せるように物をばらまく習癖がある。自分の生活、人生、世界が一望できた方が便利だ。これがぼくの整理術だ。

この発想は単純に生きる隠居生活と矛盾しているように見えるかも知れないが、隠居は吐き出す生き方だから、吐き出すことを抑制して、単純になろうとしても無理だ。

辺り一面にバラまいて物や考えの全貌を見渡せるようにすれば自ずと自分が見えてくる。自分が見えない内に整理をするといっても、 一体何を整理するというのだろう。

人間はいきなり単純にはなれない。もともと複雑な存在だから。何も無理して整理術などマスターすることはない。白黒はっきりつけるようなつまらない人間になるのが落ちだ。

魅力的な人間になりたいなら、取り入れたいものは片端から取り入れ、食い散らす雑食人間の方が、整理術に拘って非欲望的に生きるよりよっぽど人間的だ。人間はほっとけば老いて、自然に整理術を身につけ、単純になるものだ。

5月12日
雨の日、傘なしで歩くのが美学か? ナルホド。以前ボディビルをしていた頃、放射能の雨が降る(1961〜2年頃)といわれていた頃だったけれど、ボディビルをしているので大丈夫だと思ったことがありました。

喘息音を録音して、これでミュージック・コンクレートができそうだ。多少は意志通りに音をコントロールすることもできそうだ。でも意識と無関係に音を発声している。この点飛蚊症(ひぶんしょう)とよく似ている。ついでにぼくは飛蚊症でもある。ついでに耳鳴(じめい)でもある。

床に入って咽がヒューヒューといった初めての夜、遠くを救急車が走っていると思った。それにしても何台も何台もとめどなく走っている……と。喘息の音だった。

こういう天気の日はよく喘息がでる。雨アレルギーだったりして。また野良猫が避難場所を求めて事務所内に。野良猫アレルギーかな? 猫みたいに咽の奥がヒューヒューと鳴いている。

対談集「芸術ウソつかない」(ちくま文庫)は本日発売です。対談相手はこの前紹介しましたよね。「芸術ウソつかない」と言ったけど、芸術はウソつきますよ。だけど「芸術ウソつかない」のです。でもウソつきます。その辺はこの対談で!

をどう感じていますか。雨はぼくの五感を刺激します。雨が景色の色を濃く変えます。雨が草木と土の匂いを立ち上げます。雨が事物に音を発生させます。冷たい空気が口内に流れます。皮膚をしっとり湿らせます。全て五感の働きです。

2丁目の戸森さん、早速米粉パンの情報ありがとうございました。まさか足元にあるとは、先っき米・麦50/50買ったばかりですが、食べ終ったら買いに行きます。ヨカッタ。

5月11日
毎朝コメ粉パンを食しているけれど、最近コメ粉100%の会社が失くなったので手に入りません。どこかコメ粉100%を製造している、または販売しているお店があればぜひ教えて下さい。コメ粉と小麦の混合パンならあるのですが、コメ粉のみ100%はないのです。

どうしてこんなことが起こるのだろう。昨日も書いたが、あるシリーズの制作中に、全く変奏的な作品ができた。これはシリーズから廃除すべきかどうか? で今までの自分なら迷うはずだが、 これもシリーズの過程でできた作品だからシリーズの一環にすべきだと判断する。

創作は全く人生と同じだ。何が起こるかわかったものではない。起こったものは全て肯定して受け入れるべきだ。これが自分に固執しない唯一の方法だ。

生きにくくしているのは全て自分に固執しているからだ。固執するほど大した自分かどうか考えてみよう。

自分ってあってないようなものだと思えるようになると、随分生き易くなるだろうね。

ところで自分って一体何者なんだろう。それを解明したらどうなの。問題がないのに答えを出そうとするようなもんだね。まるでデュシャンの便器の前で答えを探そうとしているようなもんだ。

5月10日
○本日の寄贈本
エンライトメントより 「ABSTRACT PRTRAIT」 HIRO SUGIYAMA
Yuri Kageyamaさんより
「THE NEW AND SELECTED YURI」 YURI KAGEYAMA
「Talking TAIKO」(CD) Yuri Kageyama

小説「四日間の奇蹟」についてリツイートで3人の方が触れておられますが、誰の本ですか? 内容は?

横浜トリエンナーレに出品するシリーズを制作中ですが、突然シリーズが破綻して別の作品ができてしまいました。するとこの作品のシリーズ化がまた始まりそうです。作品が作者の人生と無関係に自らの人生を歩みます。

作者は作品の人生に従って歩むこともあるのです。

5月9日
◯本日の寄贈本
日本道観より「気の山洗心革命」/「気の健康術」(早島正雄著)/「気で分かる成功する人、ダメな人の法則」(早島妙瑞著)

導引術に興味を持っているとリツイーとされた方はHPの本日のブログ(たまたま日本道観から送られてきた書籍)に書名(3冊)を書いておきました。導引術に関しては問い合わせセンター:フリーダイヤル0120-64-6140へどうぞ。
HP: http://www.nihondokan.co.jp

5月8日

蟻がアトリエの玄関付近にいるので、訪問される方は足下にご注意下さい。飼い蟻です。

GWがダラダラ過ぎて終わりました。こういう期間は目的もなくダラダラ過ごすのが一番いいです。何かのために何かをしないのが最高の休息になります。

実にダラダラと散歩して、ダラダラと本を読んで、キャンバスに絵の具をダラダラと塗り、トロトロと居眠りしました。

5月7日
◯本日の寄贈本
後藤純一さんより「須田国太郎」テクノネット社

サタジット・レイ監督の「大地のうた」、「大河のうた」、「大樹のうた」、の三部作を毎日1本ずつ見ている。以前にも見ているので、この懐かしさはまるで故郷に還った感じだ。

レイ監督のインドは虚構というより、ぼくの知っているインドの現実に近い。なぜかそこに「昭和」を感じてしまうのだ。

この映画音楽は確かラビ・シャンカールだったと思う。彼のコンサートは一度アーメダバッドで聴いたことがある。1960年代彼はニューヨークのカーネギーホールを裸足のヒッピーで超満員にしたことがある。ジョージ・ハリスンのシタールの師だ。

ラビ・シャンカールもいいが、ぼくはサロッド奏者のアリアクバル・カーンが好きだ。彼の「夜明けのラーガ」を聴いていると、体がそのままガンガーの岸辺に運ばれてしまう。

サンフランシスコの近郊にあるアリアクバル・カーンのサロッドを教える学校に行って、彼の授業を見学したことがあった。彼の音楽から「静寂」の中の激しさに強い影響を受けた。

5月6日


5月5日
今日は久し振りで本をまとめ買いした。マンガ2冊、思想書、哲学書、日本の古典、健康書、画集の7冊。天気が悪く、光がよくないので制作を中止して、買った本に目を通す。書評本から離れて、自分の好みの本を読む楽しみは格別だ。

井上ひさしさんみたいに一日30〜40冊(これってぼくの一年間の読書量を超えている)も読めない。今日は2冊がやっとだった。多分明日は読む気がしないだろう。本を読むために生まれてきたわけじゃないからね。

5月4日
「ぶんちゃん(えまおゆうさん)の次はイシちゃん(轟悠さん)でお願いします」というツイートには笑ってしまいました。「イシちゃんで」という「で」がおかしいのです。「トロの次はウニで」みたいじゃないですか。ぼくはマジジャンではないので、タカラジェンヌを次から次へと出せないのです。
宝塚劇場のポスターは10種類作りました。絵麻緒さんが雪組のトップの時に彼女からオファーがあり、他のトップからの方からもあったのですが、だからといって作れるものではないのです。劇団の方針がありますから。

5月3日
5時半に起きて公園に行く。早朝のせいか10数人の姿があるだけで、ベンチで本を読んでいたが、陽が陰って、その内風も出て来て寒くなった。自販機の飲み物は全部冷たい。冷房だってなんだって日本人は身体を冷やしたがる。

今年の夏はまた酷暑の上節電されそうだから、今の内に身体を温めておこうと思う。その方が乗り切れそうに思う。これって科学的根拠、ありやなしや。

そば屋で一人が支払うとしてレジの所に行ったら、もう一人がテーブルに座ったまま「俺が払う」とその気もなさそうに言っている。すると払いかけた人が「あっ、そう」と言って戻ってきた。そのために結局テーブルの人が払う羽目になってしまった。

5月1日
食欲が出てきたのでウィルスの胃腸炎(?)は治ったようだ。と同時に断食も終了。もう少し断食が続いてもよかったかも。月曜に病院の検査があるので朝食は抜き。ストイックには慣れているので平気。

野良猫(黒タマ)の所在が今尚不明。里親を名乗ってきて下さっているのにまだ姿を見せないので、もうしばらくお待ち下さい。
元宝塚雪組の男トップスターのえまおゆう(絵麻緒ゆう)さんが遊びに。宝塚時代のとっておきの話をたっぷり満腹。宝塚には異界の魅力があり。創造の原点なり。

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