8月31日
昨日は導引術の見直しと、新しい術を道長さんから教わる。30年ほど前に一度習ったきりだが、ほとんど憶えていたが、ひとつ抜けているのがあった。道教(タオイズム)の生き方は導引術によって老廃物と邪気を追い出し、体内の気の流れを自然の状態に戻す。
ダビンチも体をゆっくり動かすと言っているが、導引術をゆっくりと自然の動きを呼吸と共に身につけていく。スローな生き方の根本こそタオイズムではないのか。
実は9日からハワイに行く予定だったが、体調不順のため中止した。ハワイは喘息治療を兼ねていただけに残念だが、逆にハワイに対する憧れが強くなった。今までも憧れによって作品を制作してきた。憧れが現実化した時には作品が死んだ時だ。
憧れは憧れのままでいい。憧れの山は越えない方がいい。永遠に着かない「憧れのハワイ航路」でいいのだ。
8月30日
数多くの本を読むのは止めようと思う。それよりも古典を何遍も読む方がいい。自分に残された時間はそんなに長くないので、この間に出来るだけ多くの本を読まなければという考えは、生に対して未練を持つだけだ。
●本日の寄贈本
角川文庫より「にっぽん製」「お嬢さん」「雑雑な彼」「純白の夜」「夜会服」「夏子の冒険」/三島由紀夫著
クロス由美さん
イナリさんとかいう方に会いました。2012年について質問されましたが、ぼくにはこのことがよくわからないので答えようがありません。とにかく一日一日、今を生きるしかないんじゃないでしょうか。
白久間直さん
土曜日の全ポスター展は人が多く、トークも会場外のモニターで大変失礼しました。トークの整理券は開館前にすでに失くなっていたそうですね。早朝から並んだ人がいたからでしょう。ご質問の1問目はまあご想像におまかせします。2問目は絵は全てタブへの挑戦です。
村井保彦さん
その内新作の発表のチャンスもあると思います。
藤巻一也さん
そうです。ぼくのアトリエは磯崎新さんの建築です。
8月29日
怠けると、休息をすること、スローでいることの重要性は老いと共に自然の摂理のように身についてくる。この三つは全て遊びに通じる。合目的性から解放され、自由だからだ。バルザックは人生の目的を休息と言った。省エネ人生だ。
バルザックは休息どころではない多くの作品を書いた。彼の休息は小説を書いている瞬間のことを言ったと思う。ぼくの中でも描くことと休息は同意語だ。これをぼくはバルザック方式と呼ぶことにしよう。
土曜日のポスター展は2000人の来館者があったそうだ。外も中も暑いでんなー。
ぼくの外出活動時間は朝夕に限定されている。だからアトリエには7〜8時頃に行く。午前中がうんと長いので、休息も雑用もこなせる。ぼくの雑用は様々な画集を見ることだ。点滴受けながら画集を見るが、これがなかなか至福の時間だ。
昨日の国立国際美術館の建畠館長とのトークは楽しかった。建畠さんは詩人で、突っ込みもするどい。だから解体されていく快感が心地よい。まるで道教の洗心術を受けているようで、身が軽くなった。
8月28日
電車の中でメガネを掛けたまま眠っている人がいる。目を閉じても眼鏡が必要なのかね。それとも眼鏡を取ると自分じゃない顔になるのを恐れていうるのかね。まあどうでもいいことだけど。
怠けること、休息すること、スローでいることの重要性は老いと共に自然の摂理のように身についてくる。この三つは全て遊びに通じる。合目的性から解放され、自由だからだ。バルザックは人生の目的を休息と言った。省エネ人生だ。
電車の中でメガネを掛けたまま眠っている人がいる。目を閉じても眼鏡が必要なのかね。それとも眼鏡を取ると自分じゃない顔になるのを恐れていうるのかね。まあどうでもいいことだけど。
この10年間毎月一本づつ観ていた宝塚歌劇をここんところしばらくご無沙汰してしまっている。内なるタカラヅカを卒業したのかもしれないが、あの創造の原点である両性具有の男役はサプリメントみたいなもので時々つまみ食いが必要かも。
ぼくは諸悪の根源は時間をケチってフル回転していることにあると思う。流される近代時間に便乗しないように心掛けている。病気も時間の使用法を誤ったためだ。
一日の内で何もしない無為な時間ってどの位持てるんだろう。現代人は時間にケチになっているように思う。無駄をまるで悪徳のように考えてはいないか。散歩の時、アトリエでゴロゴロしている時、新幹線の中、ホテルの中、時間を最大限に使うことだ。
鑑賞者の大半は若い人だということに驚いた。彼等はぼくがかつてデザイナーであったことを知らない人がほとんどだから、「この人ポスターも作っていたんだ」という声を聞く。
金曜日に瀬戸内寂聴さんがポスター展を観に来てくれた。瀬戸内さん関連のポスターも4点展示されている。自分のはテレくさいのか、さっさと次へ。そーいえば人前で自作を眺めるのは恥ずかしい者だ。外面より内面は見られたくないからだ。
8月27日
猫背の目線」日本経済新聞出版社 新書版 http://www.tadanoriyokoo.com/shop/g2/yb033.html
「横尾忠則全ポスター」国立国際美術館 7月13日〜9月12日 http://www.nmao.go.jp/japanese/home.html
河鍋暁斎この人狂気の人だけど狂人ではないですよ。憧れは山の向こうにある。だからその山を越えたらあかん。憧れこそが創造の力だ。ぼくはインドに憧れ、滝に憧れた。そしてそこに行く前にインドを描き、滝を描いた。行った時はただのインド、ただの滝。カスですわ。
シャッチコばらないで、やっぱり猫背ですなあ。猫背の目線がよろしおまっせ。えっ?「猫背の目線」まだ読んでまへんの?そりゃエライコッチャ。
怠けることは悪徳ではない。美徳だ。北斎の滝巡りなんて本間にいい加減なもんだ。現場に行かないで、おおよそで描いている。この怠惰の思想がいい。ぼくは小説の本文を読まないで挿絵を描いた。この怠けぐせが想像力を発揮しまんねん。シャッチコバッテ生きてどないしまんねん。
政治がようやらんことを芸術でやればいいのだ。
生の中に死があるんのやのーて、死の中に生がありまんねん。死は悪とちゃいまっせ。生より死の方がエライどすねん(京都弁でカンニンしとくなはれ)。なんちゅーたって死は宇宙でっさかいになあ。ええ、ホンマどす。ホナ、おおきに。
芸術家はカタイことからヤワラカイことまで、カシコイことからアホなことまで、何んでもできんとエーモンが描(書)けまへんのや。どっちかに片寄ってたらあきまへんのやでェ。賢者にも愚者にもなりまんねん。
平野啓一郎さんからぼく宛のツイート。何んじゃこれ。チンプンカンプンのハングル語。これを翻訳するとですね。ぼくがヘアーカットした同じ時間に自分もヘアーカットしてまんねんということになりまんねん。ぼくもハングル語は少しは読めまんねん。アーティストは何んでもできんとあきまへんねん。
「ぼくのものはぼくのもの、人のものもぼくのもの」この根性が芸術の伝統を作る。
アンリ・ルソーの改竄作品を1966年頃から描き続けているが、この間世田谷美術館で見たルソーの「赤ん坊のお祝い」も1966年に描いているのでまるで自分の絵に見えるのだ。「ぼくのものはぼくのもの、人のものもぼくのもの」。
ぼくの肉体への関心は病弱であることから始まったが、それが参禅することで多少理論化されてきたが、まだ感覚的だった。その延長上で道教の導引術に出会った。30数年前だ。だがまだ体得できていない。そこに近代医学を導入してみたいーー。
ぼくの肉体への関心は病弱であることから始まったが、それが参禅することで多少理論化されてきたが、まだ感覚的だった。その延長上で道教の導引術に出会った。30数年前だ。だがまだ体得できていない。そこに近代医学を導入してみたいーー。
子供の頃も今も虚弱体質は変らない。この体質がぼくに肉体への関心を向けさせたように思う。そしてその肉体が芸術とも向い合わせになっている。
近代医学と同時に道教(タオイズム)を肉体を通して見つめたい。ぼくが病院が好きなのも自分の肉体の秘密を探究するためだ。自己を知ることは自己の肉体を知ることーーこの考えは変らない。
物語る。この間、総合病院の知人の院長さんと話をしていて、ぼくの中に決定的に欠如している部分を発見した。それは医学だ。今後は少し医学を学びたい。医学から芸術と肉体の総合を考えてみたい。
ぼくの中のかつてのデザインの時代は終った。そしてその後の絵画からも離れようとしている。ぼくのデザインは10代の図案からスタートした。今、絵画をその10代の図案の次元に戻そうとしている。
8月26日
●本日の寄贈本
宮沢みちさんより「リアル手相占い」宮沢みち著
大阪の国立国際美術館でポスター展を開催しているためだと思ったら、そんなことをいっさい知らない人達からポスターの依頼が集中している。ポスターは「もうやりません宣言」を「隠居宣言」(平凡新書)を出した時に公表したばかりだ。デザインはやり尽したと言ってね。
ところがポスター展で考えが変った。ぼくの10代の頃の図案的な作品を発展させたアート作品を制作し、それをポスターに再利用するという方法だ。主題は当然ポスターの主題で描く。
するといちいち面倒臭い絵画の主題を考えないで済む。主題なんて何んでもいいんだ。主題や様式に縛られているのは若い時代だけで、もうぼくの年令になると何をやってもいいことに決めたんだ。
あゝでなきゃいけない、こうでなきゃいけないなんて、誰のための人生だかわからない。ぼくには基準がないというぼくだけの基準があるだけだ。
熱中症がマイブームになったぼくはアトリエの中からメダカが水槽の外の世界を見て、こんな世界にはとっても棲めないよと言っている気持とほとんど同じだ。
8月25日
若い頃は心と体が乖離していても平気だった。両者の間を埋めることで創造が成立していたが、今の年令になると両者を統合することで肉体年令と創造年令を一致させないと病気になることを知った。
一般的には肉体年令に従っていればいいが、アーティストはそこに創造を持ち込むので実に厄介だ。創造の意志は常に肉体年令に対して反撥したがる。だからバランスが崩れるのだ。そして最終的に体にダメージを与えかねない。
しかし、この両者が親和関係を結んだ時は至福の時代を迎える。
今日は7時台にアトリエに入った。陽が高くなるとアトリエまでの3〜4分(自転車)でさえ熱中の影響を受けかねないからだ。そして外が暗くなってきたら帰宅することにしている。情けないが、熱中症がマイブームになってしまった。
まあ朝晩、導引術で気を調整している。そして風呂で湯と水を交互に体に刺激を与えたり。これ結構ピリッとして想像力にも効果ありそうです。
さあ、気分転換を計って今からヘアー・カットに行く。
8月24日
satouさん
「憂魂・高倉健」、あの時代の空気感をそのまま伝えたいという考えから、復刻しました。楽しんでいただきありがとうございます。お陰さまで大阪のポスター展も盛況です。
吉成重夫さん
なかなかいいY字路ですね。大田区では発見できませんでした。参考にさせていただきます。
○本日の寄贈本
高橋巌さんより「シュタイナー社会問題の核心」
ルドルフ・シュタイナー/高橋巌訳
和田誠さんより「連句遊戯」笹公人/和田誠共著
ビーエービー・ジャパンより「身体のホームポジション」藤本靖著
藤原書店「美術論集」エミール・ゾラ著
又、倒れちゃった。熱中症で。世田谷美術館で「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」展を観ている最中に気分が悪くなり、すぐ病院に。点滴を受けてやっと快復するが、まるで老人が淘汰されていくような気がする。高齢化社会とばかり喜んでおれない。
知り合いの絵具会社は、この猛暑で画家が絵を描かなくなり、絵具が売れなくなったと嘆いておられる。絵を描くと体内熱がかなり上昇するので、熱中症の危険性十分だ。
美術館へ行くのにタクシーを呼んだ。乗車するとクーラーがあんまり効いていないので駅前で別のタクシーに乗りかえる。この間、新神戸駅でも同じことをした。どの運転手も80才近い高齢者なので、クーラーはあまりお好きじゃなさそうだ。
今日で6度目の熱中症だ。どうも熱中症体質(老人体質)のようだ。一体どうすればいいんですかね。とにかく外出ができないのでアトリエに行くに行けない。絵描きさんが絵を描かなくなったのも、ぼくと同じでアトリエに行けないのかな。この実感若い人にはわからないかも。
年令と共に体力が年々落ちているのがわかる。だからもう150号は大き過ぎて描けない。100号も手ごわい。小品ばかりになりそうだ。考えに従うというより体に従うとこうなりそうだ。これはこれでよしとしなきゃいけない。
8月23日
西脇の帰路、大阪・国立国際美術館へ寄る。昼食時間だったが各部屋には人が多く、特に若い人が目立った。担当学芸員の話によると外国人(白人)がどの展覧会よりも圧倒的に多いと驚かれる。情報源は不明とのこと。大阪にはそんなに外人さんが多いんやろか?
この美術館は入口からいきなりエスカレーターで地下に降りて行く。降りた所が広い空間で地下に見えない。さらにエスカレーターで地球の中心へ降下。ジュールベルヌかアガルタ王国かシャンバラか。そう、そこはサンクチュアリだ。
暗黒のサンクチュアリから芳香が匂い、川のせせらぎからマイナスイオンが五感を刺激する。そんな展覧会や。ウソや思うんやったら行って見て。
走る新幹線から見る手前の風景は物凄いスピードで後退するが、ずっと遠方の風景は手前とは反対に列車と同じ方向に同じスピードで走る。近景と遠景の中間はなぜか静止しているように見える。視覚のマジックだ。
「猫背の目線」日本経済新聞出版社 新書版
「横尾忠則全ポスター」国立国際美術館 7月13日〜9月12日
「IDEA No.342:横尾忠則 グラフィック撰集」誠文堂新光社
8月21日
昨夜同級生5人らと夕食をする。60年前のお互いの性格はちっとも変わらない。人格は十代で形成されるというのは本当だ。まるで成長が止まっているようだ。原石むき出しで交流できる人間関係が失われている時代に対する反省のためにも、この利害関係のない交流は続けたい。
老境に達すると利害関係から解放されなければならない。仕事を趣味に変えない限り利害関係は一生つきまとう。
友人の寺山修司は「職業・寺山修司」と言った。「職業・寺山修司」は短い人生を突っ走るにふさわしかったが、これじゃ休む間もない。「寺山修司」を戯れるなら「趣味」にすべきだった。
寺山修司が他人に興味を持つのはウォーホルと似ていたが、ウォーホルは芸術を商売に、商売を趣味にした。
寺山修司には晩年はあったが老境はなかった。ウォーホルは老境の入口で死んだ。寺山は今頃向こうで老境を学んで未完の人生を完成の人生にするために職業を趣味に切りかえていることだろう。
8月20日
密集した墓石を眺めていると、もうひとつの死者の町に見えて来た。
方、気温が下がったので墓に参る。すでに自分の墓を造っているので、自分の未来の魂にも手を合わせておく。「私は死んだのだ」と過去完了形で思う。死んだつもりになれば少しでも生きやすいだろう。
高校の先生も毎回同級生と同じように顔を出される。そんな人生の大先輩をつかまえて「先生、幽霊違いますの?」と兄貴みたいな存在の先生の健在ぶりに思わずジョークが飛び出す。
郷里にたまに帰ると自然に同級生が寄り集まることになる。誰かの関係性に於いてしか生きていけなかった時代がお互いに懐かしいのだろう。
老いゆく彼等の顔はそのまま自分を映した鏡である。
70才を過ぎると同級生は共通の目標に向かって歩んでいることがわかる。以前は他者だった同級生は今や自己同一の対象だ。
遊びにルールがないようにインファンテリズムにもルールはない。だから芸術の中核になり得る。「、
芸術家は創作寿命が終ると肉体寿命も終る。創作寿命の核こそインファンテリズムだ。
郷里に帰ることは自分の中のインファンテリズムの出会いと確認に なる。インファンテリズムが健全である以上創作寿命は延長されそうだ。
この美術館の設計者は磯崎新さんで、日本のへそ公園駅と美術館が 一体になっており、建物は列車が三両連結したように構想されている。
へそといえば郷里の西脇は本州の中で唯一緯度と経度が交差した 位置にある。その日本のへそ公園の一角に西脇市岡之山美術館がある。
見る夢の大半のシチュエーションが郷里だ。その郷里を舞台にその 後のぼくの人生で出会った人達が登場する。そんな時ぼくのへその 緒は郷里とつながっていることを実感する。
ホテルの部屋の窓から市内の全貌が見渡される。まだ瓦屋根の家が
沢山残っているが、半分以上はビルに変った。変らないのは夜見る
夢の中の郷里で、ぼくの子供時代の風景そのままだ。
見る夢の大半のシチュエーションが郷里だ。その郷里を舞台にその
後のぼくの人生で出会った人達が登場する。そんな時ぼくのへその
緒は郷里とつながっていることを実感する。
へそといえば郷里の西脇は本州の中で唯一緯度と経度が交差した
位置にある。その日本のへそ公園の一角に西脇市岡之山美術館がある。
この美術館の設計者は磯崎新さんで、日本のへそ公園駅と美術館が
一体になっており、建物は列車が三両連結したように構想されている。
この美術館で現在は「東京Y字路」の写真集(国書刊行会)の
出版に合わせてぼくの写真展が開催されており、本日がそのレセプ
ション・パーティーだ。そのために帰郷している。
郷里に帰ることは自分の中のインファンテリズムの出会いと確認に
なる。インファンテリズムが健全である以上創作寿命は延長されそうだ。
8月19日
○本日の寄贈本
来住しげ樹さんより「ためらう女」小石りの著
西脇は36度。東京では耐えられない猛暑だが、子供の頃もこの位の気温だったように感じる。そう思うと急に猛暑も郷愁に変る。
郷里の西脇病院がリゾートマンションみたいに新装した。早速見たくなったので病院へ行く。病院があんまり気持ちよく快適なので、ロビーで仕事をすることにした。近くにこんな病院があると、読書や原稿執筆にはもってこいだ。
旅に出るといつも保険証を持参して、何んでもいいから、体の悪い所を探して病院に行く。どうも根っから病院が好きだ。怖いもの見たさであるが、この行為はどこか芸術の不安さに通じる。
ホテルの部屋から町の全貌を眺めていると無数の時間が交差しているように思う。止まっている時間、流れている時間、消えた時間、出現した時間の万華鏡を見ているようだ。
8月18日
葛飾北斎は90才の時、あと寿命が十年欲しい、ダメだったら5年でもいいと言った。狩野芳崖は遺作になる「悲母観音」を描きながら「あと2日欲しい」と言ったが、ついに未完のまま終ったが、この作は彼の最高傑作になった。
北斎は宇宙の深淵に到達するところまで来ていた。画家は実に業が深い。とことん極めたいのだ。
「極めたい」ーそのプロセスに思考が介在する。発想は霊感でよい。しかし全てを霊感に頼るわけにはいかない。インスピレーションだけで出来た作品はアイデア作品で終る。
毎朝夕来る新聞はまともに読んだことがない。見るだけだ。イヤ、めくるだけだ。
指に油っけがなくなったのか新聞がめくりにくくなった。よく年寄りが指にツバをつけてめくっていたが、あれだけはマネたくない。
芸術にルールがないように遊びにもルールがないのは芸術と同様目的がないからで、プレイとかゲームなど形而下的な行為は単なるお遊びです。ぼくがここでいう遊びはニーチェの人間における三つの性質の最終段階の「幼な児」状態のことです。
今日、宮本亜門ちゃん(今や亜門様と呼ばなきゃいけないけどぼくは昔から亜門ちゃんと呼んでいる)が久し振りで、メンド臭い話を持ってきた。メンドーであればあるほど、どう逃げるかを考える。いつも逃げながら何かを作っている。
亜門ちゃんと昔「月蝕」の舞台美術をしたことがある。舞台はインドでぼくのインド体験を彼に話すのだがメンド臭くなったので、「ぼくの話を聞くよりインドに行ってきてよ」と言ったら一週間後に本当に行った。その素直さと直感と行動力こそが創造の源泉だ。
二人の意見が対立することがあった。お互いに平行線だとわかっていたので結論はジャンケンで決めることにした。結果はぼくが勝った。でも実はどうでもいいことだったんだ。大事なのは妥協しないことなんだ。
8月17日
○本日の寄贈本
後藤雅洋さんより「一生モノのジャズ名盤500」後藤雅洋著
日本経済新聞のJAZZジャケット10選に後藤雅洋氏がマイルス・デイビスの「アガルタ」を取り上げられていた。このLPの題名はぼくの命名で、マイルスがこのタイトルを気に入ってくれた。「アガルタ」とは地底王国の名前で、シャンバラはアガルトの首都ということになっている。地球空洞説で有名である。
8月16日
○本日の寄贈本
読売新聞社より「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール展」カタログ
中嶋えりさん
国立国際美術館のポスター展へは館長さんとのトークがあるのでその時に行きます。豊島はこの猛暑、また熱中症になりそうなので、ちょっと無理です。完成された作品を見ていないので何ともいえませんね。それにしても「横尾忠則作品前」というバス停があるんですか。ヘェー。
とにかく忙しくしたいのは嫌ですね。昔はスケジュールに空白はなかったけれど、最近はカスカスにするようにしています。仕事があっても気がついたらいつの間にか終わってしまったような仕事の仕方をするようにしています。就寝時間は10時まで厳守しています。7時間睡眠なので起床は早いです。このところは暑いので散歩は中止です。朝食までの時間はベッドの中で読書(画集が多い)したり、エッセイ書いたりです。9時過ぎにはベッドに入りますが一日が長いです。
石井素直さん
ブログ拝見しました。その昔、長男がサンフランシスコにいた時確かに車でご案内いただきました。あんまり時間が経ち過ぎて石井さんのお顔が思い出せません。また東京でわが家の近くにバーベキュー屋がありました。その時のことは記憶はないですね。いつかサンフランシスコのY字路(ありそうですね?)探索もしたいですね。吉田日出子さんはお会いしたことがないんですが、よろしくお伝え下さい。丁度コンサートの期間中は東京にいますが、制作真最中です。残念です。
8月14日
明日の休日は国立国際美術館の地下(この建物は地下にある)で過ごしてください。ミュージアムショップへも是非。展覧会の感想を待っています。(e-mail address)ツイッターでも受けつけています。それにしても大阪のお好み焼きが食べたい。美術館の近くにあるというので今度行った時には行きまっせえ。
8月13日
○本日寄贈本
作品社より「ゴジラの音楽」小林淳著
中嶋えりさん
国立国際美術館の全ポスター展、多くの方から感想いただいています。展示空間で気になられた個所、早速学芸員の方にチェックしてもらうよう指示しました。作品の数の多さに疲れなかったですか。でも最後の部屋が十代の作品が展示されているのでホッとした人も多いようです。十代の作品が展示されているのでホッとした人も多いようです。ぼくもこの場所から新たな発想をしたいと思っています。瀬戸内海の「瀬戸内国際芸術祭2010」展、完成された作品は実はまだ見ていないんですよね。何しろ豊島(テシマ)は暑くて、少し涼しくなってからと思っています。庭園を作品化したのは初めてですが、石に傷つけないようにと赤色の下にはラミネートされていますが、このラミネートだけは避けたかったんですよね。まあ完璧を求めるのは無理ですね。
8月11日
藤巻一也さん
ぼくの子供時代の夏は今年と同じぐらいの猛暑だったように思い、暑きゃ暑いほど嬉しかったものです。夏休みはほとんど毎日小川でコブナ獲りに熱中していました。黒人のように黒くなるのが自慢でした。
茶谷伸さん
国立国際美術館のポスター展が大盛況と聞いております。全ポスターを集めて一堂に見るのは自分の一生で今回限りなのでぼくも一度見に行きます。トークショーの時は混みそうなので日時をずらして、、、、、。
8月10日
今日発売のデザイン雑誌「アイデア」まるごとぼくの60~70年代のデザイン・ワークの特集である。中々面白い編集になっています。ポスター以外の装丁、イラストレーション、ジャケットデザイン、新聞広告などなど満載。
今日は熱中症にならなくて済みそうだ。昨日は点滴をした。効果大だ。スポーツドリンクと点滴液の中間のナントカという飲料水を病院で買ったがこれがまたいい。
ツイッターで見ると大阪・国立国際美術館の「全ポスター展」は人がいっぱいと報告されていたが、関西方面の方だけに限らず、これが最後の大規模なポスター展になります。この機会にできるだけ多くの方に見ていただきたいと思います。
8月9日
大友崇史さん
メール拝受しました。実にリアリティのある夢ですね。夢はもうひとつの通信手段だと思います。こういう夢は一種の霊夢(メッセージ)だと思います。
○本日の寄贈本
篠山紀信さんより「THE LAST SHOW」篠山紀信著
赤々舎より「まねぶ美術史」森村泰昌著
角川文庫より「黒澤明」黒澤明著
8月6日
このブログと同時にツイッターを見て下さい。ツイッターでは「私」の想いを毎日吐き出し続けています。誰のためでもなく、流れ去る想念(雑念)をキャッチすると同時に自己埋葬の作業です。言葉で吐く絵画です。
http://twitter.com/tadanoriyokoo
長い制作時間をかけた作品がやっと終わりに近づいてきた。肩の荷が下りると同時に作品に対する未練が去ってしまった。いつまでも心残りになっていると前に進まない。
この年令になると、身体の状態に敏感になる。特に体調不良の時は。若い頃もそうだったように思うが、現在の方が深刻だ。でも待てよ。いつも深刻だったような気がする。どうも人生は深刻にできているようだ。
●本日の寄贈本
北川フラムさんより「大地の芸術祭」北川フラム著
8月5日
小林中様
この猛暑の中大阪のポスター展へわざわざありがとうございました。満足していただいたご様子、嬉しい限りです。現在50種類のポスターが会場のショップで販売されているそうです。
自転車で駅前の画材店へ行ったところ熱中症になって気分が悪く、自販機でスポーツドリンクを飲んだら回復しました。でも近くのクリニックへ行ったらここも超満員。
8月4日
元・元匿さん
坂本龍一さんからメールがあって「もっと気軽な機会にまたお話が聞きたいです」と言ってくれてますので、それと成城のとんかつ屋でめしを食う約束をしているので、その内会います。何年も会わなくても意志の通じる友人っているんですよね。一生のうち、4〜5回しか会わない友人もいます。それでも友人です。
この間から書評のための本「フェリーニ/映画と人生」毎日数ページづつ読んでいるけれど何しろ600ページを越す大著で、なかなか読了できず、ヘトヘトしています。読了した頃には何も覚えていないことしょっちゅうです。
夏はどこへ行ってもクーラーで風邪を引きます。といってセーターを持ち歩くのも荷物になるし。本当に虚弱体質なんです。
8月3日
北海道と青森に行っている間に驚くほど多くの方からポスター集やエッセイ集のサイン本を依頼されていましたが、しばらく留守にしていたため発送が遅れましたが、本日サインをした上で発送をしました。間もなくお手元に届くと思います。どうも失礼致しました。
久し振りの飛行機、あんまり嬉しくなかったです。国内は旅行気分をゆっくり満喫するためにどこに行くのも列車です。あのザワザワした空港内がどうも肌に合わないんですね。海外旅行は仕方ないですが。それにしても移動している大半の人が、中国、台湾、韓国の人には驚かされました。アレッ、いつの間に日本はどこかの国の植民地になったのか知ら、と思わされました。
それにしても今回の旅行の行先々でツイッターのフォロアーの方々に会いました。思わぬ職業の方々に、必ずしも美術愛好家だけではないことを知らされました。パソコンや携帯からもツイッターを見ることができます。
○本日の寄贈本
白井佳夫さんより「銀幕の大スタアたちの微笑」日之出出版
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