2013年4月30日
雨が降りそうな日は蟻は最初から出て来ない。適確な天気予報者だ。
「飼い蟻がいます。踏まないように」の道路標識を「虫」する人が意外に多い。
踏まれて死んだ仲間を、巣に運んでいく蟻がいる。地底の蟻の墓場に連れていくためだ。

2013年4月26日
連休は絵と本で時間をつぶそうかな。うーん展覧会でもいいかな。しばらく公園に行っていないので公園で一日マンガ「ワンピース」を抱えて過ごすのもいいかな。

2013年4月24日
唯識思想の㐧一人者岡野守也先生に会って単独講義を受ける。唯識は大乗仏教の深層心理で仏教の中でも最も難解な学問だ。三島由紀夫が晩年取り組んでいた阿頼耶識と末那識の世界である。
澁澤龍彥さんの家で三島さんが松山俊太郎さんから阿頼耶識の講釈を受けながら2枚の皿を重ねて、「上が末那識で下が阿頼耶識ですか」と質問すると澁澤さんが横から「三島さん、そりゃ番町皿屋敷だよ」と言って茶化した。それでこの話が終ってしまったのを思い出した。

2013年4月22日
蟻は3次元ではという意見、確かにその肉体は3次元ですね。でも蟻は壁も天井も床と同じようにフラットに把握しています。だから空間認識が2次元というべきだったですね。


土曜日の福島県立美術館での山下裕二さんとのトークでは立見も出るほど沢山来ていただきありがとうございました。東京に比べると寒いのに驚きましたが昨日はやっぱり雪。桜の花と雪の取り合わせは日本画の新題材!
山下さんとのトークは僕の43年前の「少年マガジン」の表紙体験(高校時代)を中心に、話題はY字路まで飛翔。
久し振りで、当時の「少年マガジン」の表紙を見たけれど、今じゃ採用されないだろうと痛感。(写真参照)


絵にいいことは身体にいいことをするしかない。
僕の健康法―― 一に仕事、ニに睡眠、三に便通、四に散歩、五が鯛焼。
世間は何をするにも目的が必要と言うが、僕は何をするにも目的を持たないタイプだ。
天気がいいと蟻のことが心配。天気が悪いと自分の体のことが心配。

2013年4月19日
今日は福島へ。3.11の年に岩手と福島の両県立美術館での個展が決まっていたが地震のために今年に延期された。明日から福島県立美術館でポスター展が開催される。その初日に山下裕二さんとトークをします。是非御来館を。
グラフィックデザイナー時代より画家時代の方が10年も長くなった。だけどいつも遅れてきた画家だと思っている。
現代美術で主題が重視されているけれど、僕は主題は如何に描くべきかのキッカケ程度でいいと思っている。
僕は今もコタツ愛好者だ。眠り易いためには身体は冷えた方がいいのに、その反対のことをしている。コタツに限らず、何んだって逆のことをしたくなるのはどういうことだろう?

2013年4月17日
宇宙人が三次元的存在であると同時に四次元的存在であるとすると、二次元的存在である蟻は三次元的な人間をきっと宇宙人のように感知しているかも知れない。

2013年4月15日
金曜日の夜ディズニーランドに招待されていたが、当日神戸に行ったために、翌朝5.33分地震に遭った。15秒だったが、26階のホテルの部屋で突然襲われた。直後3人の人から「大丈夫ですか」という電話あり。地元の人達は18年前の再来だと思ったそうだ。
朝のホテルも美術館も地震の話題でもちきり。神戸の人達にとっては相当のショックだったようだ。3.11も有楽町のビルの23階で、経験させられた。
神戸で2日間公開制作した。初日は早朝の地震で不眠状態。豊島の横尾館に展示される「オーロラ」作品と同一モチーフに、前回公開制作時のオーロラのテーマを合体した作品を制作するが、前夜、オーロラの特集番組をテレビで観た。共時性だ。
公開制作は未完で終ったが次回(6月)の公開制作では完了させる。さらに次作に挑戦。それにしてもこの間の2日間は大勢の来館、その上美人が多いのには驚いた。僕が神戸にいた時よりもうんと美人が増えた。美人力で描こう!
NHK出版の林さんから「死とどう向き合うか」(A.デーケン)が送られてきた。本書によると死の恐怖が人を創造的に積極的に生かすと言う。死の恐怖の別のポジティブな側面だ。

2013年4月12日
外が暗くなったかと思うと大量の灰が落ちてきて、さらに夜のように暗くなったかと思うと岩石が落ちてきた。富士山が噴火したらしい。そんな夢を見た。
公開制作が新宿で10時から行なわれるのに、まだ渋谷にいる。間に合いそうにない。だけど気がついたら、定時に着いていた。まだ余裕があるのでトイレに行く。そんな夢を見た。

2013年4月11日
1969年に描いたまま実現できなかったポスター(自主制作)をシルクスクリーンで印刷するという話は書きましたが、44年振りに陽の目を見る幻のビンテージものです。新しくて古い作品です。誰も見たことない。当り前。

2013年4月8日
公開制作=4/13(土)4/14(日)午後於横尾忠則現代美術館(神戸市灘区原田通3-8-30/http://www.ytmoca.jp/)
小澤征爾さんの復活宣言には元気と勇気と力を貰った。音楽は本当に素晴しいと言う小澤さんはいつも初心だ。
ひととき白隠禅師の禅画がちょっとブームになっていたが、ぼくはその禅画に隠されたマジカルな秘密に興味があった。またそれ以上に白隠の「夜船閑話」の愛読者である。
一昨日来た「TIME」の記者は僕が滝を描いたり、滝の絵葉書でインスタレーションするようになったのは滝の夢を見るようになったというと凄く納得してくれたが、以前カナダの美術館に滝の作品を出品した時、学芸員に同じことを言うと、「夢なの?」と言って引いちゃった。
山口洋子さんと野球を観に行って、球場を出た途端どっちが勝ったか二人共思い出せない。横を歩いている中年夫婦に「どっちが勝ったんですかね?」と聞いたら、夫の方が奥さんに「どっちだっけ?」と聞いた。奥さんは「あら覚えてないわ」と言った。僕は安心した。
1969年に描いたアメリカをテーマにしたポスターの原画が出てきた。印刷をしないまま放置していたけれど、これを40年振りでシルクスクリーンで刷ることにした。6月頃完成の予定。新作とはいえないから、旧作新発見! だろうなあ。
昨日は台風一過、汚染空気一掃されて快晴気分良好なり。有名老音楽家と午後の一時をマサラティーで過ごす。こんな日は起きているようで眠っているようで、生きているようで死んでいるような実にアンニュイな一日だ。
韓流ドラマの男性はほぼ一重瞼で、女性は全員二重瞼だ。まさか男性が一重瞼に整形しているわけないよね。
瞑想と寝入りばなは似ているが、瞑想は覚醒に向かうが、寝入りばなは無意識に向かう。いや向かうのではなくやってくるのだ。
絵画には模写があるが、音楽には模写という言葉がない。全部が模写だから。
自分の中で東洋と西洋が混在している。対立しないものと対立するものが在る。そしてこの両者がすでに対立している。融合なんてあるのだろうか。あるとすれば敵味方の軍勢が合戦状態にある時に近い。
一人ひとりが宇宙とつながっているという意識が持てれば自他の区別がないが、僕の中にはまだ他者がいる。
僕のツイッターのつぶやきは思索なのか、瞑想なのか。どっちでもない去来する一過性の雑念に過ぎない。それが螺旋を描いているだけだ。
人は心から離れれば離れるほど理屈っぽくなる。心はもっとナチュラルだ。
玄関の瓶の中にメダカが住んでいるのを想像したり観察していると自分の脳の中を見ているようだ。
三食は儀式だけれど仕事は儀式ではない。仕事は擬色なんだ。
一年間毎朝来ていた庭のカラスがいなくなって一週間になる。捕獲を逃れて甲府地方に逃げた連中と一緒ならいいのだが。
カラスは子供の頃の風物詩だった。群れて鳴きながら山に帰る姿に、いつも明日の希望があった。

2013年4月5日
山田洋次さんとは架空の映画のストーリィをどんどん作っていくことが多い。寺山修司ともこんな風に物語を創作して面白がっていたことを思いだした。言葉にすることで想像力は生産されていく。黙して語らずもいいが、相手によっては他力の活用も有効。
話の相手によっては反射鏡になる。自らを反射鏡にするより、この方がてっとり早い。同業者同志はダメ。パクられる恐れがある。異業者でも用心しないとパクられる。確信犯はどこにでもいる。
身近な者こそ要注意。同じパクってバレるなら歴史の彼方からパクるに限る。
肘猫が治ったかと思うと次は右の人差し指の先(爪)がチクチク痛む。常に身体的欠陥を抱えて生きている。常に我れ自身が問題児だ。

2013年4月4日
最近わが家のタマは人間のように考え、決断力が鈍ってきた。人間は動物のように感じて決断しなきゃいけないのに、タマは人間の見本にならなくなってきた。
先日、触れた天才少年少女達の、お言葉「信じることで成せる」、「感じること」、「成り切ること」、「無心になる」。まるで高僧のお言葉だ。
天才で生まれて天才のまま死ねる人間は少ない。凡才で生まれて天才になる人間はまれだ。凡才で生まれて凡才で死ぬのが大半だ。
一昨夜は喘息の発作で2時間しか眠れなかった。昨日の鍼治療で昨夜は9時間眠れた。自分に合う治療を見つけるべきだ。
玄関の瓶が雨であふれるほど増水した。お陰でメダカが蘇生した。
朝、アトリエに向かう途中、散歩中の田村正和さんに会い、しばらく立ち話のあと公園へ。ベンチで熱いココアを飲みながらメラニン効果大の朝の太陽を浴びる。遅咲きの桜が残っている。地面に花びらが敷きつめられている。強い太陽で身体が温ったまる。
朝の公園は小さい子供の声だけがする。その声がかえって辺りを静かにさせる。遠くでカラスが鳴いている。近くの足元にはタンポポ。桜の花びらが歌舞伎の舞台の天井から思い出したように時々落ちる紙桜みたい。
ベンチで日光浴をしていると知り合いの編集者中村さんに会う。アジアのどこかの国に行きたいというとマラッカがいいのではと教えられる。アジアの中の西洋を感じる所に行きたいと思っていた。それと時差のない所へ。中村さんは八王子の向こうの祖父母の墓参りに行くそうだ。エライ。
公園の時間が止まったように進行しない。年寄りか子供の時間ってこーいう時間かも知れない。
瀬戸内さんの実話で、スタッフ6人が突然クーデターを起こして全員が止めてしまった。われわれのために働いている先生をみかねての退職らしい。環境が変わってよかったじゃないですかと言う。そう、新しい人生の幕開けになるとどこまでも前向きの92才。
静寂を破って頭上を爆音を立てて軍用機が低空飛行。また別の飛行機がやってきた。平和な公園に何か不吉な予感。

2013年4月1日
僕の鍼の先生の手は凄く熱い。鍼師にとっては言うことない。鍼師でも手が冷たい人がいるそうだ。そーいう人は頭のいい人で、鍼のツボを知識で知っている。手の熱い人は感性というか直感というか、まあそーいうタイプのようだ。
猫肘薬は熱を下げると処方箋にはあるが、副作用として発熱もあると書いてある。薬によって下げようとすると、体が抵抗して本来の体温を上げようとするから、こんな妙な現象が起こるのではないだろうか。
テレビで観た天才子供の言葉には近代的な知識や理屈や解釈は通用しない。子供天才ハスラーは「生きると思う気持が大事」、子供天才落語家は「話の人物になり切る」、子供パソコン早打天才は「無心になること」、子供天才写真家は「ただ感じること」どれも真理だ。
こーいう子供の感性を否定した教育が現代社会だとすると、相変らず未来に期待は持てない。
薬の副作用は悪だと思っていたら、ある薬の副作用によって便秘気味を改善してくれた。
芸術も理屈っぽくなってきている。また自作を解釈したがる気持の背後にあるものは何? 解釈は鑑賞者、読者の領分ではないのか。デュシャンは口にチャックをし続けた。だからデュシャンは巨匠になり、解釈がうんと増えた。解釈すればするほど大衆は離れる。
描きかけの絵が2ヶ月ほど立てかけてある。何を次にしたらいいのかわからない。毎日考えているが何も浮かばない。その内、一気に仕上るのだろう。早いとこ結末が見たい。というより早いとここの絵から離れたい。
アトリエと自宅に空気清浄器を入れた。喘息のためだ。まだ効果がわからない。でもあるだけで自信がつく。
頭上の桜もいいけど、足元の小さいタンポポもいい。公園に行くとタンポポの花見ができる。これから野の花を探すのが楽しみだ。ところでこんなことにみんな興味があるのかな。
猫肘が治ったようだ。次はどこ何? どこ?
前立腺ガンの検査がパスした。検査の結果がわかるまで戦々恐々だがパスすると、あんなスリリングな時間はなかったと思う。
老齢になると全てがスリリングな死の日常に変る。
哲学者の言葉より若いアスリートの言葉の方が肉体を通している分、実感がある。
久し振りに年上の茶飲み友達の神津善之さんとマサラティを飲みながら四方山話に時間をつぶす。こういう目的も意味もない贅沢は若い頃にはわからない。
「横尾忠則全装幀集」(ピエブックス)55年間、918点、520ページの大著が出きた。発売は5月中旬頃。8,800円。糸井重里さんいわく「横尾さん、多すぎる! すごいのは、よくわかった。しかし、これは人びとに自信喪失させる」。そーかな? 自信つくんじゃないの?

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