2011年7月31日
だいぶひがみじかくなってきた。ひがみじかくなると、たいようのあかりでえをかいているので、むかしのひとになったみたいだ。
一昨日は和田誠君の個展のオープニングに行った。久し振りの人に会えた。本人と友達だけど、彼の周辺の人とぼくの人脈はちがうからだ。でも昔はみんな知っている人達ばかりだったんだ。
ぼくは酒も飲まないし、友達付き合いをしないので、友達はだんだん少なくなってくる。昔は多過ぎたので、今の方がいい。だからケイタイも持たないし、メールもしない。ハガキだけだ。
月曜日に横浜トリエンナーレ出品の絵がアトリエから出る。アトリエは空っぽになる。空っぽの中で何を考えるのか楽しみだ。
外出に傘を持って出たけど、雨は降らなかった。このところ毎日外出は自転車だ。歩くと去年みたいに熱中症になるからだ。
晴れるのか、降るのか、暑いのか寒いのか、実にあいまいな天候の中、傘を持たないで、レイン・ハットだけで街に出る。案の定、雨に濡れる。玄関のメダカは雨で増水した鉢の中で泳ぎ回っている。これ以上増水しないように鉢の上に傘をさしてやる。
もう一点と思ったが、これで打ち止め。横浜トリエンナーレの制作も終わった。7ヶ月近くで15点。多いか少ないかはわからないが、この間岡山と高知の県立美術館では3点描いた。他にコミッションワークなどを入れるともう少しある。まあいいところだ。
さあ、次の制作にかかろう。ニューヨークの画廊での個展のためのコラージュ作品の制作だ。年内いっぱいハサミとカッターのアナログ制作が続く。
2011年7月29日
◯本日の寄贈本
藤原書店より「環、東日本大震災」NO,6/「震災復興、後藤新平の120日」
後藤新平研究会=編著
今から世田谷文学館の和田誠君の個展のオープニングに顔を出すつもり、そのあと溜池方面へ。和田君は立て続けに本を出している。忙しいから、かえって仕事がたまって本になるんだろうな。
タクシーのタダ乗りどころか、バスのタダ乗り(やはり1万円札で)もしたという人が意外に沢山いるんですね。世の中には珍しいことってないんですね。
「怪人二十面相」ではなく「絵人(かいじん)百九面相」です。109の意味を考えてみて下さい。
ぼくの作品にも「溶解変化」(ようかいへんげ)と呼んでも(ようかいへんか)と呼んでもどっちでもよろしい。あの「妖怪変化」と結びつけたかったら、それもまたよろしい。「溶解変化」は目下、高知県立美術館の「絵人(かいじん)百九面相」展に出品しています。
よーく見ると芸術作品の中にもダジャレは沢山盛られている。タイトルにも示されている。金ベタにマリリン・モンローを描いたウォーホルは「ゴールド・マリリン」とタイトルを付けたけれど、これってダジャレ? それとも単に説明? いちいち引っかからないことよね。
拙著「ツイッター、その 雑念のゴミ箱」の意味について聞く人がいるけれど、ぼく自身がつぶやいている言葉は、頭の中に去来してくる刹那的なもので、大したものではなく、単にゴミ箱に投げ込まれてもいいようなもんですわという意味でんねん。今までも何度も言ってまんがな。
リツイートで「これってダジャレ?」とわざわざ聞いてくる人がいるが、人のダジャレを聞くよりしらけまんなあ。
ドキュメント映画のスタッフが毎日のように来ている。昼食には、彼等はなぜかカツドンを食べる。どこででも、早く食べられ、腹一杯になるからか。それにしてもみんな早食いだ。「なんでカツドン?」答えはない。きっとカツドー(活動)屋だからだろうなあ。
2011年7月28日
高知県立美術館長さん、初め学芸員の皆さま。美術館では長々とお世話になりました。楽しい1週間でした。もう一度伺いたいくらいです。今度は涼しい時期に。上京の際にはぜひ寄って下さい。
僕は一度だけタクシーにタダ乗りしたことがある。足が痛く、新橋演舞場から銀座4丁目までタクシーに乗った時、1万円札を出したら、「こんな短距離を乗った挙句、1万円だと! そんなつり銭はない! 降りてくれ!」と言われ、結局タダ乗りだった。
昨日の東京新聞夕刊の一面トップに「復興支援を悪用、タダ乗りトラック」。子供の頃「電車タダノリ」といって冷やかされたものだ。
2011年7月27日
ツイッター集「ツイッター、その 雑念のゴミ箱」のタイトルを糸井重里さんが誉めてくれたって、本当? このタイトルをOKしてくれた角川書店さん、ありがとう。
あんまりあくびばかりするので、スカーッとしたくなってシャンプーとカットとマッサージをしてもらった。気分転換はこれに限る。そして帰りに新しい熱救急シートを買った。何んでも試してやろう––だ。
昨夜はアイスノンを首に巻いたり、鉢巻きにしたり、温まると冷凍したりで一晩中忙しくて、今日は終日あくびばかりしていた。
この間から集中的にドキュメント映画の撮影に追われている。向こうは追っかけている。追いつ追われつ、サスペンスドキュメントだ。相手が追っていると思えば、逃げたくなる。ドキュメント映画が面白くなるとすれば、この追いつ追われつのゲームがあるからだ。
2011年7月26日
◯本日の寄贈本
藤本書店より「モノが語る日本対外交易史七—一六世紀」
シャロッテ・フォン・ヴェアシュア
イーストプレスより「まんがで読破/四谷怪談」
「まんがで読破/純粋理性批判」カント作
サンガより「精神の星座」蛭川立著
2011年7月25日
高知にて商店街でよさこい祭の練習に出会った。 |
2011年7月24日
高知から帰京すると咽がつまり始めた。喘息再発だ。やっぱり南国で東京の空気と違うようだ。そのせいか、東京で描いている絵に比べると色彩の変化がみられた。体と気候と色彩は無関係ではなさそうだ。
一年北欧で、次はハワイでというふうに場所を変えて住むのもいいけど、こんなしんどいことは全くやる気はない。いながらにして世界一周をしなきゃ、アーティストとは言えない。
2011年7月22日
◯本日の寄贈本
和田誠さんより「41頭の象」トムズボックス
黒澤めぐみさんより「猫のいる場所」アーカイブス出版
トーキョオ、P.M.5時2分なう。四国はやっぱり海外だ。遠かった。
2011年7月21日
商店街の無秩序な人波の中、突然現れた100人以上のダンシング・グループ。よさこい祭のリハーサル中の100人以上の若い女性。そこから立ち上がる熱気に思わず鳥肌が立つ。この鳥肌こそ自粛ムードと対立する生命エネルギーだ。
創造的肉体エネルギーは無限の自家発電だから電気を消費することはない。
公開制作ではペギー葉山と小林旭と小柳ルミ子のそれぞれのバージョンの「南国土佐をあとにして」のCDを掛けながらの制作だった。地元で聴くご当地ソングは異邦人の旅情をかきたててくれた。今やあの歌の播磨屋橋もビルとビルの間に挟まれて窮屈そう。
2011年7月20日
公開制作がやっと終った。旅行中はいつも不眠気味なので制作はきつかったが、日常から離れているせいか大胆になれるので、思い切った実験ができる。知らない土地の地霊の力を借りることができた一点だ。
最初から観念があるのではなく、描く途中で絵が発する観念によって思考が固まると、その思考を再び絵に返すことによって不思議な交流が始まることに気づいた。自分と絵の対話だ。
絵との対話が始まると、行け行けどんどんだ。こうなると自分がエネルギー体になったも同然だ。
今日は土用の入りで、夕食はうなぎ。
2011年7月19日
高知市内には台風が上陸しているらしいが、絵を描いていると外界がいくら荒れ狂おうとも、内部はいたって冷静だ。
美術館が閉館されたために無人ひとり公開制作を行っている。場所のみが公開の場だけれど、ここが広くてなかなか気分がいい。明日観客者が来たら、かなり絵が進行していたなんて、ちょっとした裏切り気分が爽快だ。
昨夜(18日)サッカー女子W杯の再放送見る。PKでGKの海堀が片足でセーブした瞬間、勝てると思った。あの好守が魔法を導いた。芸術的なプレーだった。
高知直撃の大型台風のために美術館は午前中で閉鎖されたが、絵は描きに行く。観衆の想念エネルギーに代って台風の破壊的エネルギーを味方にして描くことにする。
絵金展 1970年 |
美術館が閉館されたために無人ひとり公開制作を行っている。場所のみが公開の場だけれど、ここが広くてなかなか気分がいい。明日観客者が来たら、かなり絵が進行していたなんて、ちょっとした裏切り気分が爽快だ。
美術館の庭は激しい雨で増水している。樹木は悲鳴をあげながら揺れている。こんな環境で絵が描けるのはまたとないチャンス。以前宮崎県立美術館の個展時の公開制作も台風に見舞われ、列車が不通になり2日間足止めを食らった。札幌でも大雪で2日間足止め。公開制作には台風がよく似合う。
高知市内には台風が上陸しているらしいが、絵を描いていると外界がいくら荒れ狂おうとも、内部はいたって冷静だ。
無人非公開公開制作を終える。随分はかどる。アトリエでは常に無人非公開(公開)制作なのにこんなにはかどらない。でも毎日がこんな調子じゃくたばってしまう。でも所変れば(作)品変る。毎日初めての場所で描くと変化を求める必要がないということだ。
高知の皆さん、明日は予定では一時からの公開制作だけど、A.M10からスタートするつもりです。そして出きれば明日中に仕上げたいとこです。
2011年7月18日
南国土佐は遠かった。こちらはもっぱら台風襲来の話題で持ちきりだ。50年振りの大型台風が接近し、明日は大荒れの模様とか。それでも公開制作は決行。午前中から始めて夕方4時までで150号6割方制作。テーマは美術館を解体して、Y字路に組み立てる。
段々ショーコー酒のプロフェッショナルになってきたのか、酔わなくなってきた。芸術家は「コップ一杯の水で酔わなくちゃ」と三島由紀夫さんに言われたのを思い出した。水で酔えば安上がりだ。
日経新聞の「奇縁まんだら」の絵はモデルを前に描いているのか?という質問(トークショー)を受ける。あの絵の人間は全員死者。「ハイ、幽霊に来てもらってモデルになってもらっています」。
高知は日差しは強烈だが、湿気が少ないのか、ハワイで喘息が出なかったように、久し振りで喘息が止まっている。長生(息)きできそう。
公開制作は疲れる。その上脱水症状になる。水分の補給が必要。それにチョコレート。あとは音楽。ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」は最高。
高知に一週間滞在だけどなぜか本を避けたくなる。思考停止状態でないと描けないのだ。
絵を描くことで、よけいなことを考えない。そのために精神的に随分救われている。
もし絵を描く職業を選んでいなかったら老化が早かったように思う。
2011年7月15日
○本日の寄贈本
よしもとばななさんより「ジュージュー」よしもとばなな著(文藝春秋)
南国土佐に行くというだけで、まるで外国に行くような覚悟だ。熱中対策はしっかりできたし、あとはエコノミイ症候群(列車で5時間50分)対策だ。岡山から高知への南風号からの車窓の風景が愉しみだ。空港そのものが嫌いなので国内旅行は全て列車である。
岡山にて |
2011年7月13日
○本日の寄贈本
文春新書より「弔辞=劇的な人生を送る言葉」文藝春秋編
明後日から高知県立美術館へ行くので熱中症対策に冷しタオルを買う。アイスノンを入れて首に巻くと確かに気持ちいい。頭までヒンヤリする。水で濡らすだけで冷えるタオルもあるので、これって便利いい。このタオルを首に巻いて街に出るとジロジロ見る人が多いが、同時に自分も試してみたそうだ。
2011年7月12日
◯本日の寄贈本
イースト・プレスより「まんがで読破/自由論」ミル作/
「まんがで読破/幸福論」アラン作
林洋子さんより「藤田嗣治、本のしごと」林洋子著
(集英社新書ヴィジュアル版)
2011年7月10日
見ることは読む以上の結果をもたらすことは事実だ—と思う。ぼくは長いことそうしてきた。見ることは哲学を導き出す。一冊の本以上に一枚の絵から学ぶことが多かった。
活字本と違って画集は何度も何度も見る。百回も読む本はないけど画集は百回位、それ以上見る。見ることは発見することで、その都度新たな思考と結論を導き出す。しかも借りものではない思想を。
借りものの思想では独自の創造ができない。言葉よりビジョンが思想を作ることをぼくは信じている。
2011年7月9日
倉俣史朗さんは会った時から、敬語を使う人だったので、ぼくはてっきり、年下だと思って、「倉俣くん」と呼んでいたが、数年後ぼくより2才年上だとわかった。今さら急に「さん」と呼べなくて、それ以降名前を呼ばなくなった。
彼の80年代以後のインテリア作品は素晴らしかった。彼は50代半ばで亡くなったが、作品は燃えつきていたので、作品寿命は充分全うしたと思う。
倉俣さんについて文章を頼まれたが、どうしても書けないので、占星術の先生に彼の人生と運命を見てもらって、それを掲載(作品集に)した。それを今読むと恐ろしいほど当たっている。ぼくもこの先生に見てもらえばよかったと思うが、この先生自分の占星術通りに生きて、そして亡くなった。
2011年7月7日
来客があるたびに蟻が踏まれないように交通整理をしなければならない。これって結構大変なんです。こちらも大変ですが、お客も大変なんです。もっと大変なのは蟻です。蟻は人間みたいに三次元が把握できないから人間は天変地異的存在なんだろうな。
2011年7月5日
◯本日の寄贈本
河竹登志夫さんより「黙阿弥」河竹登志夫著(講談社文芸文庫)
和田誠さんより「山手線一周1995円」和田誠著(HB VISUAL BOOK)
白水社より「低開発の記憶」エドムンド・ドスノエス著/野谷文昭=訳
2011年7月4日
まる2日間べったり公開制作。絵の中でつぶやき過ぎたので2日間(土・日)はツイッターでのつぶやきは休みでした。
100号2点ジャクスターポジション(平置)作品を昨日午前中で完成。午後の鍵岡館長とのトークショーでは精魂尽き果てて、思考停止状態で言葉は軽石を砕いたように粉々に散乱する。
旅先きではこま切れに目が覚める。眠ったような眠ってないような心と身体が結びついていない幽体離脱状態で、絵を描く。絵は夢遊状態をそのまま反映して、新境地開く。
3日間の岡山の旅は絵ばっかり描いていたように思う。先々週もそうだった。場所が変れば作品の傾向も変わる。意志で変えようとしなくても異環境が勝手に変えてくれる。
3時間の新幹線も全く苦にならなかった。吉田喜重の「小津安二郎の反映画」を読む。読みながら反絵画を考える。昨夜は自宅で快眠。
○本日の寄贈本
NHK出版新書より「イギリス社会入門」コリン・ジョイス著/森田浩之訳
朝日出版社より「世界をやりなおしても生命は生まれるか?」長沼毅
島地勝彦さんより「はじめに言葉ありき、おわりに言葉ありき」島地勝彦著/二見書房
2011年7月1日
再び岡山へ。前回描き残した絵を公開制作で仕上げるためだ。公開制作の現場には特殊な空気が流れている。観客の緊張感が逆に気持を解放してくれる。一種の演劇的空間だけれど、台本がない。
台本はないが、即興で事を運んでいけるこのスリリングさは演劇と呼んでもいいかも知れない。
セリフも演技も必要ない。したいことをすることが約束されている唯一の自由な空間(舞台)だ。これは「事件」なのだ。
明日朝10時。岡山県立美術館で「事件」を起こす。
どんな本を読んでいるかという質問ですが、今は朝日新聞の書評のための本を読むだけで手一杯です。朝日新聞の書評にアスセスするとぼくの読んだ本とその書評が出ています。
明後日の朝日に書評が出ます。書評ではおおむね芸術関係の本が中心ですが、時には他ジャンルの書評もすることがありますが、専門外はどうもニガ手です。
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