2019年06月26日
細野晴臣さんとはひとまわり違います。1976年以来40数年の間に10回対談しています。毎回同じことをしゃべっています。年を取ると前にしゃべったことを忘れるのです。2人共性格がよく似ています。

YMOに参加しないかと細野さんに誘われたけれど、記者会見に間に合わなくなって止めてよかったですよと細野さんは言う。もし入っていたらケンカをしたと思うよいっていました。同じ性格だからね。

2人のアルバム「コチンムーン」(CD/LP)聴いて下さい。時代を先取りしていましたね。海外で大受けのアルバム。

インドへ行った時、2人共病気になって、大変だったんです。死ななかったことが不思議なくらいだった。

2019年06月24日
昔は絵を描くのに今ほど疲れなかったけれど、今はよく疲れる。指先きをチョコチョコと動かしているだけなのに全身が疲れるというのはどーいうこと?

とはいうものの、何もしないより絵を描いている方が元気とはまた、どーいうこと?

職業的にどんな職業が一番長命で、どんな職業が一番短命かというデータとか報告書なんてないのだろうか。ぜひ発表してもらいたい。もし、画家が一番長命だということになると、誰もがアーティストになりたがって、今度は競争率が激しくなって、短命になるかも知れない。

死亡者の死亡年令を調べれば、簡単に職業別死亡年令がすぐ出ると思うけど、誰か調べてみては?

性格別死亡年令はちょっと調査しにくいけれど、性格と寿命も大いに関係ありそうだ。

画家の長寿者は多いけれど、絵を描きながら半分眠っているからじゃないかな。手は動いているけれど頭が眠っていることは多いからね。

日本画家は洋画家より長寿者が多いように思うけれど、なんで?

アトリエでひとりでコツコツ描いているより、公開制作の方が観客がいるというのに疲れないのはなぜかな? ひとりで描いていると怠けるけれど人の前では怠けられないので、それがかえっていいのかな?

舞台役者は観客がいるからやれるけれど、誰もいなければやっておれないと思うけれど、絵はもともと公開が目的じゃないのに、ぼくはこっちの方が疲れない。ひとりの時より集中して、逆に孤独になれるのだ。

ぼくは本来が怠け者だと思う。だから画家になったのかも知れない。だけど他の画家はよく働いている。怠け者の割りには作品数が他の画家より多いのはなんで? わからないことだらけだ。

死んでも画家に転生したいという人もいるかも知れないけれど、もう二度と画家にはなりたくない。じゃ何に? と聞かれてもわからない。今のままの気持で生まれたら、何もしないだろうなあ。アパートの管理人とか、風呂屋の番台とか、劇場のもぎりとか。でも金の計算する仕事はダメだ。

貴族の家の猫がいいかな?

そろそろ眠くなってきた。

夏至の前後は曇ったり雨で、一日中暗かったために、折角年に一度の日の長い日が、逆に短かく感じられた。これから日一日と日が短くなっていく。夜中は読書にいいかも知れないけれど絵にはよくない。

月曜日、本日はSCAIザ・バスハウスのギャラリーは休みです。

サラリーマンの頃は月曜日はイヤだったけれど、今は今週は何があるのか、何が起こるのか、そんなことを想像すると、週の初めは嫌いではない。

絵描きは年中働いているけれど、休日は世間が休んでいるので、鬼の居ぬ間に洗濯気分になって逆によく働く。

今年の前半は個展の制作などで少し働いたけれど、後半も来年以後の展覧会などで、また働かなきゃ。適当に働くのはいいけれどオーバーにはならないよーにしている。一日の中で何もしない無為の時間もたっぷり取って。

ぼくはいつも時間をカスカスしている。一日の時間を目いっぱい予定などで詰め込んでしまう人がいるが、あれだけはやらないよーにしている。

仕事を引き受けることの快感より、断ることの快感の方が大きいということを知らない人が結構多い。

谷中のスカイ・ザ・バスハウスの個展「原郷」が7月6日で終ります。東京での個展はしばらくありません。ぜひ谷中へどうぞ。谷中の商店街は観光スポットで、こちらもにぎわっています。画廊は日、月休みです。

朝は新聞の書評「ピカソ」のTシャツを作ります。来週ぐらいに出きるのでは。赤いTシャツに黒一色、前回とはガラリ。

オリンピックとは無関係でいたいと思っていたけれど、何やかやと「作品」の制作から逃がれられなそーです。でも体力以上のことはいたしません。

最近は何をしても、どこへ行っても最年長者です。精神はいつも最年少者です。

80才を越えてしまうと、欲がなくなるので、どーでもいい気分です。このどーでもいい気分こそが自由な気分です。

頼まれ仕事はなるべく避けてきて、自分でしたいことだけどと思っていたら、その自分のしたいことと同じことを頼まれることが多くなりました。これは便利のいいことです。意識と無意識の一体化です。

2019年06月21日
日曜、月曜はSCAIザ・バスハウスのギャラリー(谷中)は休みです。間違って行く人結構多いようです。ついでですが谷中の商店街はレトロっぽくて、観光スポットになっています。ぜひ、展覧会を観たあとで。

2019年06月19日


朝日の書評Tシャツ早速大勢の希望者あり。制作進行すすめます。

朝日の「ピカソ」の書評のTシャツ化を希望する声が多いよーですが、作るとすればTシャツは白で、絵柄を赤と黒、希望者の数によって決定します。前回は130着作って完売。今回は絵が入るし、色もハデです。希望者は手を挙げてみて下さい。限定版なので前回同様3,888円。希望者50人を越えれば発売。

SCAIの個展には若い人が沢山来てくれているよーです。ツイッターで見たことのないという人はこの際どうぞ。西日本の方は神戸の美術館は年中やってます。テーマも4ヶ月ごとに変わります。またショップの商品が多いので、ショップ目的の人も多いそーです。

2019年06月18日
歳を取ると毎日おかしいことがいっぱい起こります。老齢の方、何が起こっていますか?

歩くとフラつくのは難聴のせいで、三半規管の問題ですかね。それとも老化。

右の手首、左の親指が冷んやりして、痛いのは何んですかね。

足の裏に目に見えない触ってもわからない、透明のタンコブができていて、歩いたり、靴を履いたりすると気持ち悪い。これって一体なんですかね。以前、足を骨折した時以来なので神経ですかね。

2019年06月14日
Coffee Breakの取材。コーヒーは焼芋がこげた匂いがして長い間飲めなかった。柴田錬三郎さんと1年間ホテルに缶詰になった時、毎朝ブルーマウンテンと煙草のラークが似合うっといって柴錬さんからすすめられて飲んだ。次は高倉健さんと行く喫茶店のコーヒー。車の中でも飲めるよーになっていた。

パリのサンジェルマン・デ・プレの喫茶店では客の大半がエスプレッソを飲んでいた。それ以来、これを飲むよーになったけれど砂糖をドバッと入れないと強くて飲めなかった。

70才の時「隠居宣言」という本を出して、なるべく頼まれ仕事はしない。自主的なものだけをしようと決めたが、最近はしたいこと、やりたいことを先き廻りして、頼まれるよーになった。意識と無意識が1本化された感じだ。

仕事のペースはうんと落ちたというか、意識的に落としている。––というか意識的に怠けるよーにしている。

舌がザラついて気持ち悪い。胃が流れているのかな? 舌を掃除する道具で舌掃除をしている。

今頃の季節が一番好きだ。暑くなったり、涼しくなったり、晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、毎日変化がある天候は病人につらいかもしれないけれど。

周囲の同年輩の人達がよく亡くなる。そんなゾーンに入っているらしい。あと何年だか知らないけれど、やりたいことだけを、と考えて、それを全部遊びにしたいね。結果を考えないでサ。

現実的には残された時間はあんまりないけれど、気分としては時間はいくらでもあると思うようにしている。一般論的な時間ではない時間を作ればいいんだ。

面白いこと、楽しいことをやれば、時間など関係ないんじゃないかな。

怠けぐせは子供の頃からのくせだけれど、ちっとも直らない。怠けることは、ぬるいお湯に入っている時とか、居眠りする時に似て、なんとも気持がいい。絵もなんとなく怠け絵になるが、この方が見る方にもトロンとさせていいんじゃないかな。

小説は頭脳の仕事だから、トロンとしてはおれないけれど、絵はその点ドロン、ドロン気分で描ける。なんたって絵は生理的、肉体的だからね。

怠けぐせは子供の頃からのくせだけれど、ちっとも直らない。怠けることは、ぬるいお湯に入っている時とか、居眠りする時に似て、なんとも気持がいい。絵もなんとなく怠け絵になるが、この方が見る方にもトロンとさせていいんじゃないかな。

小説は頭脳の仕事だから、トロンとしてはおれないけれど、絵はその点ドロン、ドロン気分で描ける。なんたって絵は生理的、肉体的だからね。

中々、人の顔が覚えられない。昨日会った人も、忘れている、というか覚えていない。ビジュアルな仕事をしているのに、なんでか、これも昔から人の顔を覚えない。個展パーティに来ている人の全ては知っている人ばかりなのに、半分も覚えていない。

ア、ドーモ、ドーモと生返事で、挨拶したものの「誰だっけ?」ばっかりだ。認知していないというか、認知できないのである。認知症症候群???

時には認知症振りも社会生活には必要だ。「知らんでぇ」という生き方は楽だ。

昨日、みうらじゅんさんに偶然会ってお茶を飲んだ。正確にはアイスココアだけれど。みうらさんはぼくの知らないこと忘れていることを、ポイントをついて話してくれる。そのアクセントが的確だ。「知り過ぎた男」かも知れない。彼に自伝(伝記ではない)を書いてもらうと面白い。

今度、ある人とある雑誌で往復書簡を交わすことになった。どっちかが死ぬまで続く生涯永久書簡になる? 死なないと終らないなんて、いわしが水族館の中でグルグル一方向に泳ぎまくっているみたいだ。

絵を描く、文を書く、どっちも大変だ! と思わないことにしている。大変だと思うと遊びにならない。

土日はなんとなく嬉しい。子供になったような、サラリーマンになったような気分だ。妙にワクワクする。でも無為な時間をむさぼるんだけれどね。何もしないことをすることって結構大事なんですよね。

2019年06月13日
一日中、目がボンヤリ霞んでいる。このボンヤリさが絵に出ると面白い。眼鏡なしで描くとますますボンヤリ。ただ歩くのが怖いよね。特に階段などの段差が。

文化放送、大竹まことゴールデンラジオNOW。そろそろ始まる。緊張の一瞬。ラジオってテレビと違って間がないのよね。間をびっしり言葉で埋めるでしょ。素人には無理よね。

20〜30年前の未完作品を引っ張り出してきて、加筆作品を作っている。過去の様式に全く別の様式を加えることになる。まあお遊びみたいなものだけれど、このお遊びって、実はなかなか自由に遊べない。ここで気づいたのは遊びとは、つまり破壊することなんだよね。

6月13日(木)『大竹まことゴールデンラジオ』(文化放送)13:00〜15:30『大竹メインディッシュ』というコーナー(14:25〜14:50)に出演します。生放送です。では。

谷中のSCAI・ザ・バスハウスの個展会場に本木雅弘さんがブラッとひとりで訪ねて、絵を見て帰られたその時に僕の自画像の前で同じポーズで撮った自撮り写真がこれ。

三宅一生さん、浅田彰さん、大竹まことさんらもブラリと立ち寄られているよーで、色んな人達が、見に来ておられるよーです。

ネットのVOGUEに個展の写真と批評がでています。(これからかな?)


2019年06月12日
今日、「豊島横尾館ガイド」(河出書房新社)の出版打上げ会を予定していたけれど、執筆者の塚田さんが、えらい風邪を引かれたので延期することになりました。別に報告することでもないのですが、お陰で、連日「豊島横尾館」への来館者が多く、喜んでいます。本の効果かな?

今週土曜日の朝日新聞の朝刊の書評ページをぜひ見て下さい。

先きのスケジュール(展覧会)が次々入ってきています。1年後、2年後、それ以後のスケジュールが入ると、不思議なもので、そこまでは命が延びたよーな気になります。

高い補聴器よりも、耳に手を当てて聴く方がよく聴こえることがある。だから、そんな補聴器のデザインを考案して、それを製品化していただけるメーカーを捜しています。前にもツイッターでお願いしましたが、どこかの会社が手を上げてくれませんか。

2019年06月11日
高倉健さんが「横尾忠則を歌う」と「網走番外地」のメロディで歌っています。YouTubeにアップされています。一度聴いてみて下さい。https://www.youtube.com/watch?v=45akZfbxGLI

個展の出品作品が終って以来、絵を描かない日が何日も続いている。描かないのか、描けないのか、描きたくないのか、それらの全部だ。絵は無理に描くものではない。自然に描く時がやってくる。その間が何日あってもかまわない。とうとう描かなかった、これでもいい。

描けない、描かない、描きたくない、は一種の悟りだ。

雨が降ると嬉しいのは庭の瓶に水がたまると、中のメダカが水量が増えて、どうも喜んでいるよーなんだ。また緑がきれいになるのがいい。と同時に煙って遠くが霞み、遠近感ができて幻想的になる。

土日の休日も嬉しいがこれもアッという間に終る。何もしないまま終るけれど、この何もしないのがいい。

週一度の割りでマッサージを受けている。施術中はボンヤリ何も考えていない。考えると効果がないのだ。されるままにされているのがいい。

あれこれ描きたい絵があるけれど、体がその気にならない。そんな時は頭の中だけの作業になる。だから描けてないけれど描いたんだ。

歩くとフラつく。老化現象なんだろうなあ。同年輩の人が歩いているのを見るのが好きだ。やっぱりおぼつかないのは老化現象かな。

日野原先生は90才になるとフラフラが常識になるとおっしゃる。それは病気ではなく老化らしい。子供がヨチヨチするのも子供の常識なんだ。若者のスタスタも常識か。年相応の常識があるんだなあ。

画廊は日月が休みである。月曜は美術館が休みなのでそれに合わせているようだ。

SCAIザバスハウスは火曜からまた始まるので、ぜひぜひ。ツイッターで見たことのないという人が沢山いらっしゃるけれど、やっぱり見てくれて、ぼくのツイッターを読んでくれなきゃ意味ないよ。

2019年06月03日
一難去って、また一難っていうけれど、難を易に置き換えてみたらどうだろう。難しいと思わずに易しいと思えば、何んだって易しくなるじゃん。

展覧会のタイトルは如何にもというタイトルをつけるけれど、本当のところは、テーマなんてないんだ。まあかりに、それらしいことをしてみるけれど、大したことはないのである。見る人が安心するために、あんなタイトルをつけているだけで、見る人が、もしテーマを求めるなら、自分でつけたら?

世の中はメンドークサイことばかりなのは、そこに意味を求めるからだ。もともと意味なんてないとぼくは思っている。

わが家の猫は「おでん」という名だ。他所の家の猫も野良もぼくは全部「おでん」と呼んでいる。相手も「おでん」になったような態度を示すよ。

わが家に一匹、事務所に2匹、それぞれ名があったけれど、今は3匹共「おでん」だ。わが家に来る野良も「おでん」。食べるおでんも当然「おでん」。その内、自分の名も「おでん」にしちゃおかな。すると道で会う人も「おでん」。安倍さんもトランプさんも「おでんさん」。

例の朝日新聞の重ね刷り書評のTシャツ、初版は完売、二刷り中も実は予約注文に切り換えたために、1着でも刷れます。どうぞ。

SCAI・ザ・バスハウスの個展がスタートした。オープニングは来客が多く、対応したのは美術関係者のみという結果になってしまった。またオープニングは社交の場で、作品との対話の環境ではない。展覧会はひとりで、ゆっくり、誰とも会わないのがベスト。

今回の個展は主題と様式のぶつかり合い。「そして誰もいなくなった」的ミステリーの現場を作ってみたくなった。

今回の新作のタブロー5点はぼくにとっての未知の予感のスタートのつもりなんですよね。過去の作品は皆んな首吊りの処刑! そんな意味で首吊綱があちこちに描かれています。



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